熊本熊的日常

日常生活についての雑記

南回り

2010年04月21日 | Weblog
アイスランドの火山の噴火で滞っていた欧州上空の交通が漸く動き出した。これに先立ってアリタリアが南回りで日本とイタリアを結ぶ便の運行を再開していたが、南回りと言っても昔の「南回り」ではない。火山灰の影響を避けて南寄りの航路を取るという程度の意味だろう。

その昔、日本と欧州を結ぶ航空路は航空機の航続距離の制約でアンカレッジ経由の北回りとアジア中近東を点々と経由する南回りとがあった。私が学生の頃は既に直行便があったが南回りもあった。外国というところに行ってみたいと思っても、不思議とアメリカという場所は頭に上らず、欧州か南半球という選択肢で考えた。厳しい予算の制約の下では、欧州というのは実現性に乏しいものであったが、南回りの便を使えば可能性が無いわけでもなかった。空路と陸路を組み合わせるということも、シベリア鉄道を利用して陸路で行くということも選択肢として無かったわけではない。現に1985年3月にインドを旅行したときには、カルカッタでロンドンからバスを乗り継いでカルカッタまで来たという日本人旅行者と出くわして、カルカッタのチャイナタウンで一緒に中華丼を食いながら話をしているのである。このブログの1985年3月16日付「カルカッタも暑い」にその時の模様が記してある。

結局、生まれて初めて海外の地を踏んだのは、台北の中正国際空港(現 桃園国際空港)だった。空港の中だけである。1984年3月のことだった。オーストラリアへ向かう途中だったのである。マレーシア航空を利用して往復したのだが、往路は成田を発って福岡、台北、香港、ペナンを経由してクアラルンプールへ。そこで一泊して翌日の便でシドニーに着いた。復路はメルボルンを発ってクアラルンプールで一泊。翌日の便で香港、台北を経由して成田に着く予定だった。ところが機体の不具合で出発が遅れ、成田の営業時間内に辿り着けないということになり、台北で運行を一旦休止し翌朝早くに成田へ発つことになった。台北の空港内にあるホテルで一泊したのだが、チェックインが深夜で午前3時半にはチェックアウトという慌しさだった。

ちなみにオーストラリアでの滞在期間は約1ヶ月。日本を発つ前に手配しておいたGreyhoundという長距離バスの乗り放題チケットを使ってシドニーを起点にキャンベラ、ブリスベーン、アリス・スプリングス、エアーズ・ロック、アデレード、メルボルンとまわってきた。ブリスベーンからアリス・スプリングスまでは砂漠に近い乾燥地域なのだが、そういうところにたまに雨が降ると厄介なことになる。その厄介に遭ってしまって、ロングリーチという町で丸一日足止めを食らうことになったり、ホテルが無くて他人様の家に一晩厄介になったり、多少の不都合はあったが総じて愉快な経験だった。

さて、普段当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなってしまうと、日常に混乱をきたす。天変地異に限らず、我々の生活は常に不確実性に対峙している。「備えあれば憂いなし」というが、備えたくとも備えようのないことはいくらでもある。当たり前に運行されていると思っていた航空交通が麻痺してしまったとき、ひとりひとりにできることは結局のところ復旧を待つだけなのである。物事が思うようにならなくなってしまったとき、打開策を探る努力や能力は勿論必要なのだが、思うようにならないという状況を素直に受け止めて、その状況のなかで自分にできることをひとつひとつ試してみて、それが上手くいったりいかなかったりということを面白がる姿勢も、心地よく生きるには必要なのではなかろうか。目先の目的が明確なら直行便的思考は勿論合理的だ。しかし、その目的とやらがどの程度のものか再考してみれば、存外にどうでもよいことであったりすることもあるだろう。何が何でも直行便、何が何でも北回り、それが常識、というのではなく、南回りの途を考えてみたり、行くのを止めてしまうことを考えるというのも現実的な態度であると思う。人生どんなに引っ張ったところで高々100年かそこらのものだろう。あたふたしながら時を過ごすより、楽しく生きたいものである。

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