熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」

2009年07月02日 | Weblog
あさま山荘事件は小学生の時にテレビ中継を観た記憶があるし、「プロジェクトX」でも取り上げられているし、「突入せよ!あさま山荘事件」という作品も話題になったので、無意識のうちに事件関連の情報が自分のなかに刷り込まれていることは否めない。そうしたことによる先入観があるにしても、改めてあのような事件を起こした人々に対する違和感を覚えた。

弱い犬ほどよく吠える、という。安保や労働運動といった社会のなかのある種の流行のようなものに乗り、その潮目の変化から取り残されてしまった集団が自己の存在を確認するべく過激な行動に走らざるを得なくなってしまった、という構図が見える。迷子が泣き叫ぶようなものだったのではないのだろうか。

内ゲバに走ったのも、既に孤立を自覚していたから、それ以上孤立を深めたくなかったということだろう。死にものぐるいで同行者を求めた結果、恐怖によって集団を支配しようとしたということだ。総括だの自己批判だのというのは、コンパの王様ゲームを過激にしたもののようにしか見えない。それが思考を求めるものではなく単なる従属を強制する道具でしかないのである。

革命を叫びながら、その革命というものの中身は運動家たちの間で共有されているようには見えない。派手な語彙を駆使して相手を言い負かす言葉の格闘技が得意な者が主導権を握り、言い負かされたほうはそれにただ従う。主義主張があるのなら、それほど簡単に議論の決着などつくはずがないだろう。挙句の果てに暴力を行使することで利害が対立する相手を潰しにかかる。国家権力という権威を否定しながら、自分たちの組織のなかでは様々な役職を設けて権威にすがろうとする哀れ。文化大革命、五月革命、ベトナム反戦運動という諸外国の現象だけに目を奪われ、その中身を見ようとしない浅薄な態度。自分たちが目指す幻想のために、活動資金確保と称して銀行や郵便局を繰り返し襲うが、そこにあるのは市井の人々が汗水流して得た貴重なものであるという明白な事実を無視する横暴。あさま山荘事件では、犯人たちは何の要求もせず、ただ篭城しただけである。要求などできるはずがないのだ。思考能力が無いのだから。

還暦を過ぎ、自分たちが否定しようとした社会のなかで生き残っている関係者たちは、あの当時の自分たちの行動をどのように「総括」するのだろうか?