熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「愛を読むひと」(原題:The Reader)

2009年07月10日 | Weblog
この映画の宣伝では、15歳の少年が21歳年上の女性に恋をして、その相手をいつまでも想い続けるということに焦点を当てているようだが、そういう恋愛作品ではない。切り口はいくらでもあるのだが、まず考えたのは罪ということだ。

人を殺すことは何故いけないことなのか、きちんと説明のできる人はいるのだろうか。例えば、今の日本で人を殺せば、理由がどうあれ罪に問われる。しかし、戦争中に交戦相手国の人間を殺すのは、少なくとも戦場においては罪にはならない。戦争中でなくとも、カルト集団内部にあっては、反対勢力の人間を殺すのは、それが善であったりすることさえある。罪とは、その社会が置かれている状況のなかで規定されるものであって、そこに絶対的な基準など無い、と思う。

この作品のハンナ・シュミッツは第二次大戦中、ナチの強制収容所で看守として勤務していた。看守としての任務を全うした結果として、無数のユダヤ人を殺害することに加担することなり、戦後何年も経てから戦争犯罪人として裁判にかけられて有罪判決を受ける。裁判の場面でハンナが時に戸惑いを見せながらも終始毅然としているように見えるのは、自分が犯した「罪」を自覚していないからだろう。おそらく彼女が文盲であるのは、教育を受ける機会に恵まれなかったからであり、それが彼女にとっての最大のコンプレックスであるかのように描かれている。強制収容所の看守という仕事は、権威の象徴たる制服に身を包み、所内の被収容者を管理・監督する、彼女の傷ついた自尊心を回復させ彼女に生きる喜びを与える何物にも代え難い仕事であったのではないだろうか。だから、それが他者の人権を蹂躙する行為であったとしても、看守としての職務を全うしたという自負は彼女自身の生を肯定するバックボーンであったのだろう。

次に考えたのは恋についてである。主人公のマイケルは15歳の時、市電のなかで気分が悪くなり、下車してどこかのアパートで踞っているところを通りかかったハンナに介抱されたことがきっかけになって、ハンナに恋をする。マイケルはハンナの求めに応じて、性行為の前に文学作品を朗読するようになる。その朗読を真剣に聴きながら、ハンナはそこに描かれていることを考え想い描き、書かれていることに対する感想や、触発されたことを口にする。それはまるで、暗闇の中で光明を探し求めているかのようにも見える。ハンナにとって、文字の世界というのは、そこに自分の知らない何か素晴らしいものが秘められている場所のように感じられていたのではないだろうか。自分のなかにある欠落を埋めるはずの自分自身の一部がそこに置き去りにされているかのように感じていて、マイケルの朗読のなかにそれを探し求めていたのではないだろうか。

恋愛に年齢というものがどれほど関係するのだろうか。年齢が気になるような恋愛は、果たして恋愛と呼べるのだろうか。単に、ある年齢に達したら自分の前後何歳かの範囲内にある相手と恋愛をして、何年か付き合ったら結婚して、第一子を結婚何年後かにもうけて、その何年後に第二子をもうける、という「世間」の「常識」に自分の生活を合わせて、自分が社会の一員であるかのような幻想を確認して安心するための手続きを「恋愛」と呼んでいる人が案外多いのではないだろうか。恋愛はどうしてもしなければいけないというものでもあるまい。年齢差が気になるのは、「世間体」もあるだろうが、若さというものへの価値観の所為もあるだろう。世の中は若さというものに何の根拠もない価値を置いているように見える。「お若いですね」というのは年配の人に対する世辞である。「アンチ・エイジング」だの「老化防止」だのと加齢対策に躍起になっている人を身の回りでも見かけるが、単に若いということにどれほどの価値があるのだろうか。生まれたら必ず死ぬのである。時間の経過とともに死に近づく。身体能力は精神的なものも物理的なものも加齢に伴って衰える。当り前のことだろう。

確かに、同じ国民、同じ民族であっても、どの時代に生まれたかによって、無理なく共有できる価値観あるいは文化は異なるだろう。相手が自分の理解を著しく超えた発想や行動をする人であれば、おそらく恋愛は成立しない。ただ、恋愛というのは理屈ではない。15歳の少年が36歳の女性と恋に落ちても殊更不思議なことはない。こればかりは言葉で説明できるものではない。単なる手続きとしてではなく、精神の経験として恋愛を経験したことがあれば、そんなことは当然にわかるだろう。

では、マイケルはハンナに恋をしたのだろうか。もし、ハンナがマイケルの前から姿を消すこと無く、ふたりの関係が続いていたら、その関係はどのようなものになっていたのだろうか。マイケルが刑務所の中にいるハンナに朗読テープを送り、それをもとにハンナが文字を覚え、たどたどしい文字でマイケルに手紙を書くようになったとき、ふたりの関係は以前に比べてどのように変容したのか、あるいは変容しなかったのか。マイケルにとって、ハンナへ向けて朗読テープを作ることは何だったのだろうか。

ハンナが出所する一週間前にマイケルと面会をしたとき、彼女の中でどのような変化が起ったのだろうか。ハンナがテーブルの上にマイケルへ向けて手を差し出したとき、マイケルがその手を握る前に躊躇があった。ハンナはその躊躇を見逃さなかった。その瞬間、彼女は何を思ったのか。作品後半においてこの面会場面は人間というものの本質にかかわることを饒舌に語っているように見える。戦犯という事情を抜きにしても、長い年月を経てかつての恋人と再会をすれば、おそらくそこにかつてと同じ感情を見いだすことは困難だろう。面会のとき、ハンナはマイケルに、マイケルはハンナに何を見たのだろうか。明らかにハンナには出所する意志が無かった。それは何故か。長期懲役囚が出所の際に直面する現実世界に対する漠然とした恐怖も勿論あっただろうが、それだけではあるまい。時間というのは、時に人間関係のなかの滓を浄化して葛藤や対立をきれいに流してしまうこともあれば、時に人間関係に超え難い壁を作ることもある。

最近、アメリカの映画はつまらないものばかりになったと寂しい思いをしていたが、まだまだ捨てたものではないと安心した。おもしろい作品だ。

ついでながら、昔、ダッハウの収容所跡を訪れたことがある。もう20年近く前のことなので、細かな記憶は失われているが、ずっと考え続けていることもある。そのことをいつか機会があれば書きたいと思っている。