熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ディア・ドクター」

2009年07月03日 | Weblog
この作品の紹介や映画評には必ずといっていいほど嘘がどうのこうのと書いてある。映画評論家というのは正直者ばかりらしい。人が生きるということは他人との関係を生きることだ。さまざまな人とそれぞれに応じた関係を取り結び、その総体として自分というものがある。個々の関係性を最適化して、その個別最適を積み重ねたら全体最適になる、というほど世の中は単純ではない。関係というのは時々刻々変化している。永遠に最適な関係などあろうはずがない。我々は刹那の最適を確かなものだと思い込むことで自分の心の平和というものを得ているにすぎない。嘘と呼ぶかどうかは別にして、関係相互の齟齬や矛盾をだましだまし生きるのが人生というものではないのだろうか。

誰からも好かれる人、誰からも嫌われる人、というのが誰の身近にも一人や二人はいるものだろう。そういう人を自分がどれほどよく知っているかといえば、実はよく知らない人だったりする。人に自我があり、それがそれぞれに勝手な尺度を手に関係の環につながっているのだから、状況に応じて好かれたり嫌われたりするのが自然というものではないのか。一貫して好かれたり嫌われたりというのは、好かれたり嫌われたりする刹那が断続しているということなのだろう。自分にとっていついかなる時も「良い人」とか「悪い人」などというものが、もしいるとするなら、それはその人との関係が皮相で無責任であるというだけのことだと思う。

そうした当然の現実を過疎の村の診療所の医師と村人との関係で描いたのがこの作品だ。当然の現実なので、時に苦々しく、時に滑稽なのである。

主人公の失踪事件を捜査に来た刑事の態度や言動には、人を嘲笑するような嫌味が含まれている。見ていて嫌な野郎だとも思う。しかし、この刑事の眼はこの作品を観ている自分自身の眼でもあるということに気付いてはっとさせられる。他人事を無責任に眺める時の態度というのは誰でもこうしたものではないだろうか。

死というものとの距離感が絶妙に描かれているとも思った。寝たきりの老人が突然苦しみだしたといって、主人公である診療所の医師が往診に呼ばれる場面がある。苦しみが高じて一瞬意識を失ったときの家族の様子の描写に思わず引き込まれた。作品後半で重要な役割を果たす独居老人の凛とした佇まいも魅力的だ。人生には何が起こるかわからないのだが、ひとつだけ確実なことがある。それは死である。今がどれほど幸福の絶頂であろうと、不幸のどん底であろうと、人はいつか必ず死ぬ。人それぞれに自分の死のイメージというものがあるだろうが、自殺でもしないかぎり、こればかりはどうなるかわからない。メメント・モリという言葉が自然と脳裏に浮かぶ。

西川作品を観るのは、「ゆれる」に次いで本作が2作目だが、どちらも人の表情へのこだわりが感じられる。印象的な表情はいくらもあるのだが、本作では最後のシーンに救いのようなものを感じる。信頼感で結ばれた人が互いに見せる表情というのが輝いていてよいと思う。最期の最後の瞬間にそういう人がそばにいてくれたら、それまでの嫌なことや苦労などなんでもないと思えるような気がする。