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聖徳太子の墓は本当に分からなくなっていたのか:山口哲史「平安後期の聖徳太子墓と四天王寺」

2024年01月16日 | 論文・研究書紹介

 前の記事で、磯長の地は埋葬者が分からない小さな墓がたくさんあり、聖徳太子の墓も分からなくなっていたと述べた大山誠一氏の講演に触れました。

 この件については、少し前の記事で紹介した東野治之『法隆寺と聖徳太子:一四〇〇年の史実と信仰』(岩波書店、2023年。こちら)が、「第Ⅱ部 聖徳太子信仰の展開」の「第二章 磯長墓-太子はどこに葬られたのか」で扱っていました。

 間人皇后を含めた「三骨一廟」説について検討することを主としており、聖徳太子そのものではなく、聖徳太子信仰史に関する部分が柱となっていたので取り上げて説明してませんでしたが、解説しておくべきでした。

 東野氏は、まず『日本書紀』、『上宮聖徳法王帝説』、『異本上宮太子伝』、『上宮聖徳太子伝補闕記』などは、太子が磯長(しなが=志奈我、科長)に葬られたとし、天皇陵などの祭祀状況を記した10世紀初めの『延喜式』「諸陵寮」の部に、

磯長の墓(橘豊日天皇の皇太子。名は聖徳と云う。河内国の石川郡に在り。兆域は東西三町、南北二町。守戸は三烟)

とあると述べます。ここで補足しておくと、天皇陵の場合は管理専門の家柄として「陵戸」が置かれ、補助として交替で管理する班田農民、つまり「守戸」がいくつか割り当てられる場合と、「陵戸」無しで「守戸」だけが指定される場合があります。磯長では、敏達陵は守戸五烟、推古陵は陵戸一烟・守戸四烟、用明陵は守戸三烟、孝徳陵は守戸三烟であって、太子の陵は用明・孝徳と同じ扱いです。

 膳菩岐岐美妃との合葬を言うのは、多くの神秘的な伝説を集成して10世紀に成立し、以後の太子伝の根本となった『聖徳太子伝暦』が最初です。それによれば、太子は科長を巡察した際、七年後に死んでこの地に葬られることを予言して墓作りの工人に墓の造成を命じ、墓には「二床」を設けるよう指示し、亡くなった後、その墓に安置された、としています。

 『延喜式』では、膳菩岐岐美妃と合葬されたとは述べていませんが、『延喜式』では、自分のために新しく陵を作らず竹田皇子の墓に合葬せよと命じた推古天皇や、間人皇女と合葬された斉明天皇の陵についても、天皇陵であることしか述べていないため、東野氏は、太子墓も合葬でないとは言えないとします。

 そして、平安末には太子の墓が分からなくなっていたとする小野一之氏の論文、「聖徳太子墓の展開と叡福寺の成立」(『日本史研究』342号、1991年)に触れます。小野氏が発見した図書尞本『諸寺縁起集』中の「天王寺事」では、治安4年(1024)の記として、太子の墓所が誰にも分からなくなっていたが、捜し求めていた河内の普光寺の慈円聖人が、ある家で「諸陵式」と記された古文書、つまり『延喜式』の陵の部分を見いだしたところ、「磯長の墓」とあって太子の墓について記してあった、と書かれていたのです。

 そこで、小野氏は、平安後期には太子の墓は分からなくなっており、その時点では墓前の寺、つまり、今日の叡福寺も、当然存在しなかったとします。
 
 聖徳太子伝説は後代の作であることを強調する大山氏は、小野氏のこの論文を高く評価し、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)では小野氏の「聖徳太子の墓」、自分が中心となって出した『アリーナ 2008』の聖徳太子特集では小野氏の「聖徳太子<生誕地>の誕生」を載せています。

 小野氏は後者では、太子墓について上記の内容を簡単に紹介したうえで、さらに生誕の地に関する伝承が後代の成立であることを論じています。

 小野氏の最初の論文は、聖徳太子墓とその伝承について詳しく検討した最初の論文であり、きわめて意義のあるものでした。ただ、東野氏は、小野氏の最初の論文のうち、太子の墓が分からなくなっていたという点については反論があったことも紹介します。

 それは、上野勝己「聖徳太子墓を巡る動きと三骨一廟の成立」(『太子町立竹内街道歴史資料館 館報』3号、1997年)と、山口哲文「平安後期の聖徳太子墓と四天王寺」(『史泉』109号、2009年)です。

 東野氏は、山口氏の指摘は特に重要であるため、小野説は成り立たないと論じます。そして、三骨一廟の問題を検討していっており、こちらが主題になっているのですが、ここでは、その山口氏の説を詳しく紹介します。

 山口氏の論文は、中世にたくさん現れた聖徳太子関連の偽作文献の一つである「太子御記文」が四天王寺主体の作成か、太子墓側主体の作成かについて論じ、墓前寺の成立について論じた興味深いものです。

 山口氏は、小野説に触れたのち、上記の上野氏の批判を紹介します。上野氏は、当時は聖徳太子信仰が非常に高まっていた時期であり、特にその聖典とも言える『聖徳太子伝暦』では太子墓についてしばしば言及している以上、太子の墓が行方不明になっていたとは考えがたいとします。

 そして、「天王寺事」のその記事は、冒頭に「愚、誰人記事」と記されているため、典故を示すことができない史料であって信憑性に欠けると述べ、法隆寺と四天王寺が聖徳太子信仰の聖地の筆頭であろうとして、太子墓の支配を争っていた時期であるため、この記事が四天王寺に関する記事の冒頭に置かれたものと推測したのです。

 山口氏はさらに自らの発見として、武田科学振興財団(つまり、杏雨書屋)所蔵の『聖徳太子伝暦』の奧書では、寛弘5年(1008)9月1日から3日まで、河内守であった令宗允亮が公館において、清義・幡慶・光編のために『聖徳太子伝暦』の講義をしたと記されていることを指摘します。

 令宗允亮はその『政事要略』でも普光寺の僧である幡慶との交渉に触れており、普光寺僧と交流があったのです。太子墓について記されている『聖徳太子伝暦』を講義した寛弘5年は、まさにその普光寺の慈円が太子墓を探したという治安4年の僅か16年前のことです。

 そうであれば、当時、太子墓が誰にも分からなくなっており、普光寺の慈円がたまたま『延喜式』の諸陵式を見いだし、ようやく磯長に墓があることを知った、という話はあやしいということになります。こうした劇的な発見があったのだから、ぜひとも復興整備しなければならない、とする大げさな宣伝ですね。

 山口氏は、こうした普光寺の僧たちによって太子墓に対する信仰が高められた結果、国王大臣がその墓に塔を建てるという予言が記された「太子御記文」が作成され、墓前寺が形成されてゆくという流れになったと推測します。

 そして、当初は寺でなく、あくまでも聖徳太子墓と認識されていたのであって、墓前寺の成立は平安後期であり、鎌倉時代に参詣が盛んになったと説きます。
 
 こうした経緯の中で四天王寺と墓前寺の関係が深まっていくようですが、山口氏によると、法隆寺側では、「太子御記文」に関わった忠禅を「誑惑聖」と呼び批判している由。

 山口氏は、そのほかの太子信仰に関わるきわめて興味深い事実を明らかにしているのですが、末尾の「付記」によると、修士論文の一部を改めたものだそうなので、感心させられます。

 なお、上野氏の批判は、『太子町立竹内街道歴史資料館報』という目立たない雑誌に掲載されたため、気づかれにくかったでしょうが、大山氏の講演の2年前に刊行された山口氏の論文は、関西大学の史学・地理学の雑誌であって広く読まれている『史泉』に掲載されたものです。

 検索も簡単にできたことでしょう。大山氏がこの論文のことを知らなかったなら調査不足、知っていて無視したならば、いつものやり方といいうことになります。

【追記:2024年1月25日】
「守戸」の説明を加えました。