前回の記事を含め、このブログで時々、寺院の瓦に関する考古学の論文を紹介しているのは、瓦葺きの本格寺院の建立は、百済などの最新技術に基づく大事業であり、政治・経済・外交・交通路整備などの重要問題と密接に関わっていたためです。
そこで、以前紹介した新川登亀男編『仏教文明の展開と表現-文字・言語・造形と思想』からもう一篇、瓦に関する論文を紹介しておきましょう。
亀田修一「考古学からみた仏教の多元的伝播」
(新川登亀男編『仏教文明の展開と表現-文字・言語・造形と思想』、勉誠出版、2015年)
です。
亀田氏は、朝鮮半島などとの関係を重視しつつ日本各地の古代遺跡や瓦などの研究を進めており、この論文も、考古学の成果と文献に基づいて、朝鮮半島から日本列島への仏教の多様な伝播と受容の様子についてまとめたものです。
亀田氏は、まず仏教公伝以前の仏教伝播の記録に注意します。『扶桑略記』欽明天皇13年(552)十月条で引かれている『日吉山薬恒法師法華験記』に見える『延暦寺僧禅岑記』によれば、継体16年(522)に、「大唐漢人の案部村主達止が大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置して帰依礼拝したが、皆はこれを大唐神と言った」という記事があります。
高市郡は渡来人が多数住んでいた地域であって、司馬達止(達等)は蘇我馬子のもとで仏教興隆に尽くし、娘の嶋が最初の出家者となり、息子の多須奈も出家して南淵の坂田寺を発願してしており、その在俗時の子が鞍作鳥です。
坂田寺(金剛寺)は、創建時の遺構は不明ですが、飛鳥寺の創建瓦とよく似た瓦が出土しており、7世紀初頭には瓦葺きの堂があったことは確実とされています。その少し後になると、他に例がない坂田寺独自の瓦が用いられていますので、朝鮮半島との独自のつながりがあったことが推測されるとします。
馬子によって飛鳥に飛鳥寺が建立され、推古天皇の宮を改めた豊浦寺、斑鳩の法隆寺(若草伽藍)、摂津の四天王寺といった政権中枢の有力者たちの本格寺院が次々に建立され、百済から招いた工人やその指導を受けた者たちがすぐれた瓦を造って葺いていきます。他には、坂田寺や、東漢氏による大和の檜隈寺、秦氏による山背の広隆寺など、蘇我氏と関係深い渡来系氏族の寺も建てられていきます。
『日本書紀』の推古32年(624)による寺院監査によれば、46の寺があったとされ、これは7世紀前半の古代寺院跡とほぼ一致していますが、そのほとんどは畿内の寺です。地方の寺については、瓦を使用していないか、使用していても小さな仏堂だけであった可能性が考えられます。
初期の瓦は蘇我氏や聖徳太子関連の大きな寺で用いられたものであり、亀田氏はこれらを「畿内主流派瓦」と呼びます。一方、中小氏族の寺で用いられ、朝鮮半島との独自のつながりを推測させる一群の瓦を「畿内非主流派瓦(非主流派朝鮮系瓦)」と呼びます。
その代表的な例は、河内高井戸廃寺で用いられていた古新羅系、百済系、高句麗系の瓦であり、一部、独自のつながりが山背の寺院に見られるものです。これらは、その寺の周辺でだけ使われており、百済の王権から派遣されてきたエリート工人たちを指導者とする主流派とは事なり、渡来系の人々が独自のルートで造瓦技術者を招いたものと、亀田氏は推測します。
このように、初期には瓦が葺かれた本格的な寺は畿内ばかりでしたが、地方でも小さな仏堂だけといった程度の簡単な寺ができはじめたことが推測されます。以後、大化の改新時の詔や天武天皇の支援策もあって、7世紀半ばすぎから地方でも爆発的に寺院が増えていっており、『扶桑略記』によれば持統天皇6年(692)には545寺が存在したとされ、これは、これまで確認されている全国の古代寺院の遺跡の数とほぼ合致しています。
ここで注目されるのが北九州です。というのは、用明天皇2年(587)に天皇が病気になった際、「豊国法師」が招かれており、これが九州の「豊」の地の出身であれば、この地は仏教がある程度広がっていたことになるからです。
ただ、豊前と筑前地方の初期瓦と言われているものは、だいたい7世紀前半のものであって、畿内のものとは作り方が異なっており、独自に朝鮮半島から学んだか影響を受けて造られたと考えられている由。
その豊前では、伊藤田踊ケ迫一号窯跡、筑前では牛頸窯跡郡などで出土しており、その瓦の使用先は豊前では中桑野遺跡、筑前では那珂・比恵遺跡などです。いずれも朝廷の屯倉(官家)との関わりが推測される遺跡であり、屯倉の建物群の中に小さな仏堂があった可能性が推測される、と亀田氏は述べます。
北九州では、古代寺院は一部には7世紀中頃までさかのぼるものもありますが、基本的には7世紀後半から末頃に本格的な造営が開始されており、瓦の系譜は畿内系と朝鮮半島系の両者があると亀田氏は述べます。
なお、亀田氏は述べていませんが、技術が圧倒的にすぐれているのは、百済王が送ってきた工人が作成した飛鳥寺の瓦などであって、北九州の7世紀中頃以前の早い時期には、そうした瓦は発見されていません。
亀田氏は、初期の瓦が畿内の瓦とつながっているのは、吉備の遺跡だと述べます。吉備においても、7世紀後半に造営されている寺院が多いものの、一部には7世紀前半にさかのぼる瓦が知られています。
しかも、加茂政所遺跡、津寺遺跡、川入中撫川遺跡、総社市末ノ億窯跡などからは、大和の奥山久米寺式軒丸瓦(畿内主流派)とのその関連瓦が出ています。同笵ではないものの、きわめて似ている点が注目されるところです。早いものは、7世紀第1四半期後半から第2四半期前半と推測されています。
また末ノ奧窯跡で生産された蓮華文を飾る鬼板は、大和の豊浦寺と関連する平吉遺跡に運ばれていることが確認されています。このため、末ノ奧窯跡は、蘇我氏、白猪屯倉・児島屯倉が関与していると亀田氏は推測します。畿内主流派との関係が深いのです。
さらに、吉備における最古の寺院は総社市秦原廃寺であって、7世紀前半の造営とされていますが、山背の広隆寺の瓦と類例があることが知られています。寺自体は7世紀後半に整備されているものの、7世紀前半には仏堂のみであったにせよ、秦氏と関係深い寺であることが注目されます。
一方、備前地域で最古の寺と考えられている岡山市賞田廃寺については、7世紀中頃の創建時の瓦と考えられているものは、畿内主流派のものでなはい由。亀田氏は、これも当初は仏堂のみであったと推測しています。亀田氏は、さらに備後その他の寺院遺跡とその瓦について検討していますが、省略します。
いずれにしても、日本では本格的な瓦葺きの寺院は、蘇我氏、そして蘇我氏と関係深い皇族や渡来系氏族が、馬子が百済から招いた工人たちや彼らが育てた日本の工人たちを用いて建立されたのです。
朝鮮半島と独自の関係を持っていた各地の氏族や渡来系氏族の中には、それ以外のルートを通じて造瓦技術を導入していた氏族もあるものの、それによって早い時期に建立されたのは仏堂程度であって、それらが本格寺院になっていくのは7世紀半ばすぎあたりからということになります。