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四天王寺・小治田寺・百済大寺の瓦を作成した工人集団とミヤケとマエツキミ:新尺雅弘「初期瓦生産における王権の技術労働力編成」

2024年01月01日 | 論文・研究書紹介

 前回、四天王寺を扱った論文を紹介しましたので、その続きとして、四天王寺を含めた初期の寺に関する重要な問題提起をおこなった論文を紹介します。

新尺雅弘「初期瓦生産における王権の技術労働力編成」
(『史林』第106巻第2号、2023年3月)

です。

 推古朝における仏教の興隆は、最新技術による巨大寺院の建築という新たな工業生産をもたらしました。これを支えた人々や組織はどのようなものだったのか。これについて、考古学の成果に基づいて新たな社会像を描きだしたのが、今回の論文です。

 問題となるのは、その最新技術を用いた技術者集団は大王家に隷属していたのか、特定の有力氏族が管理していたのか、その技術者集団は世襲して技術を伝えていったのか、各地で活動した技術者集団はその地の権力者に組織されていたのか、といった点です。

 これについては諸説がありましたが、大きな発見をしたのは、7世紀前半に飛鳥・斑鳩・難波の寺に瓦を供給した瓦窯は、蘇我氏が管理するミヤケ、すなわち朝廷の直轄地にあったことを明らかにした上原真人氏でした(こちら)。

 ただ、技術の伝承などについてはまだまだ不明でしたが、瓦の作成技法を綿密に検証し、当時の状況を明らかにしたのが、今回の新尺氏の論考です。

 日本最初の巨大寺院である飛鳥寺の創建瓦には、花組と星組の2種類があり、百済から来た工人たちの技法の違いに基づくことは良く知られています。新尺氏は、ミヤケとの関係が指摘されている楠葉の平野山窯、宇治の隼上り窯、今井の天神山窯、明石の高岡窯、吉備の末ノ奧窯のうち、まず大阪府枚方市と京都府八幡市にまたがる平野山窯から検討します。

 この瓦窯のⅠ期では、星組の技術によって四天王寺の創建瓦を生産しており、610~620年代と推測されています。瓦の作成には回転台が用いられています。

 続くⅡ期は、小治田寺(奥山廃寺)の創建瓦を生産した瓦窯の一つであって、小治田寺は飛鳥時代には百済大寺に次ぐ大きな金堂を有しており、627年の推古天皇の死去を契機として建立され、以後も長く尼寺の筆頭だったとする吉川真司氏の説を紹介します。回転台を用いていないうえ、成形方法も違っており、Ⅰ期のタイプとは大きく異なっています。

 Ⅲ期は、再び回転台が用いられており、四天王寺のための造瓦活動をしていたのであって、この時期の瓦は百済大寺と同笵の単弁蓮華文です。この瓦は難波遷都にともなって四天王寺が大規模に修繕された際に使用されたと考えられています。639年から645年まで造営された百済大寺の同笵瓦より笵傷が進んでいるため、上限を645年と見ることができます。

 以上のことからも分かるように、この地で世襲によって技術が伝えられているようには見えません。

 天神山窯では、小治田寺創建瓦のうちⅡA型が出ており、制作技術は平野山窯釜のⅡ期とほとんど同じです。川原寺の創建瓦の技法が用いられた瓦も出ているのですが、そちらは星組・花組と異なり、川原寺の創建時に用いられた荒坂組と呼ばれる技法で作られていますが、このタイプは小治田寺からの出土はありません。

 つまり、小治田寺ための造瓦作業の後、川原寺の創建時かそれ以後にまた作業をしているものの、別系統の技法が使われており、技法の一貫性がないのです。

 次に隼上り窯では、四半世紀ほどの間に、4期にわたって技術が変化しており、最初期に活動していた二つの系統の工人たちが途中で作業から離れています。

 以上のように、ミヤケと結びついた瓦窯で生産されているものの、同じ瓦窯でも技術は継承されていないため、それぞれの在地の工人たちの間で世襲されているのではないことが知られます。

 新尺氏はさらに検討を加え、ともに星組に分類される小治田寺と百済大寺においても顕著な違いが見られるため、親子・兄弟のような系譜関係を見いだすことはできないとします。

 そして、川原寺の創建瓦はケズリ調整を多用する点で小治田寺や百済大寺と異なっているとし、それまで瓦生産に携わっていた工人が登用されたと見ます。

 ここで、その工人たちを管理した側について考察しており、初期にはミヤケで瓦が生産されていたものの、技術がその地に定着して伝えられていないため、事業ごとに工人が中央から派遣されたと推測します。

 また、奈良時代の資料となりますが、東大寺造営時には瓦工4人に対して20人の割で関連労働者が配置されていることから、7世紀前半においても、中央から派遣された瓦工と現地の労働力が組み合わされて瓦が生産されたと見ます。

 そして、那津官家へのミヤケの穀類運搬の状況から見て、7世紀前半の造瓦においては、大王の命令が、蘇我氏や物部氏や阿倍氏などのマエツキミ層を介して在地領主層に伝えられ、その地の労働力を活用して造瓦がなされたとします。

 『日本書紀』には「瓦師」という語も見えており、「師」は弟子を育成するものですので、そうした動きも考慮すべきだとしつつ、最先端の造瓦事業であっても、律令制の官司のような体制は整えられておらず、古墳時代以来の部民制のあり方と新しい技術育成のあり方が結び着いた過渡期のものであったと推測するのです。これは説得力がありますね。

 とにかく、瓦の作成の技法に関する研究が進んだ結果、いろいろ見えてきたものがあり、それと文献をどう付き合わせていくかが大事でしょう。