『日本書紀』は、編纂時に多少書き換えているものの、蘇我氏の業績を強調した史料を用いているため、蘇我氏が仏教を最初に受容したことを強調し、また法隆寺系でなく四天王寺の資料を用いているため、四天王寺が飛鳥寺にも勝る最古の本格的な寺であったかのように描いています。
四天王寺が造営された時期の前後の難波の状況は、実際にはどうだったのか。この問題を、自らの調査も含めた考古学の成果と文献によって時代ごとに検討したのが、
谷崎仁美「難波における古代寺院造営」
(『都城制研究』8,2014年3月)
です。
まず、谷崎氏が難波プレⅠ期と称する欽明朝から推古朝までです。『日本書紀』によれば、欽明天皇13年(552)に百済王から仏像が送られてきたため、蘇我稻目が向原の家を寺として安置したものの、疫病が起きたのはそのせいだとして物部尾輿と中臣鎌子が廃棄するよう奏上した結果、仏像を難波の堀江に流し捨て、向原の伽藍を焼いたとあります。
かなり伝承化されている話であって、当時、「伽藍」と呼ばれるような壮大な寺があったはずものなく、遺跡はもちろん発見されていません。
敏達6年(577)、百済王が帰国する大別王に経論と律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を託して送ってきたため、難波の大別王の寺に置いたと記されてます。この記述の真偽はともかく、『日本書紀』は蘇我氏の役割を強調しすぎであるため、私はこのように蘇我氏以外のルートでも仏教が導入されていた可能性はあると考えています。
谷崎氏はこの大別王の記事について、現在の豊川稲荷の境内にある堂ヶ芝廃寺が大別王の寺だとする説があるが、その当時のものと考えられる瓦は出ていないと述べ、以下、時代ごとに難波の寺院やその遺跡を検討していきます。
法円坂に位置する難波宮やその周辺から飛鳥寺の創建瓦のⅠ型式と同じ文様を有する瓦が出土することは有名です。このため、孝徳天皇による難波宮造営以前に瓦葺きの寺院があったと想定され、法円坂廃寺と称されていますが、難波宮下層出土の桜花形素弁蓮華文軒丸瓦を調査した経験を持つ谷崎氏は、寺院で用いられたとするには量が少なく、寺院の遺構も無いとします。
ただ、飛鳥寺の創建瓦と同じ文様であっても、使われている土が飛鳥寺とは同じでないとする説もあるほか、飛鳥寺の創建瓦のⅠ型式よりやや後出である飛鳥寺A型式と同笵の瓦も出ているものの、笵傷がいちじるしく進んでいることに注意し、寺院でないにしても何らかの瓦葺きの施設があった可能性はあると説きます。
谷崎氏は、難波宮朝堂南門跡の南西部で宮の造営前の地層から「宿世」という仏教語が書かれた木簡が出ていることに触れていますので、小さな仏堂など、仏教に関連する施設はあった可能性があると見ているのでしょうか。
次は、氏が難波Ⅰ期と称する推古朝から難波遷都までの時期についてです。四天王寺の場合は、四天王寺の前身が玉造に造営されたのであってそれが法円坂廃寺だと説く説については、考えられないとし、玉造は瓦の作成場所ないし建築材料の保管場所とする説については、瓦窯の跡はないものの、可能性はないではないとします。
そして、推古31年(623)に新羅の使者がもたらした金塔・舎利・灌頂幡などを四天王寺に納めたとあるため、その時期には寺院として機能していたとします。この時期の瓦としては、若草伽藍の創建時に金堂で用いられた4A型式の瓦笵で作られた瓦が出ていますが、范傷が進んでいるため、若草伽藍造営に用いられて痛んだ瓦当笵によって作成されていることは有名です。
上町大地の東斜面、難波宮の南方2キロのところに位置する細工谷遺跡からは、四天王寺Ⅰa型式と同笵であって范傷が進んだ瓦が出ており、百済寺に当たるとする説もあるが、瓦の出土が少ないため、谷崎氏は寺院というより小規模な仏堂があった可能性があるとします。
この時期の法円坂廃寺については、四天王寺Ⅰa型式と同笵の軒丸瓦が出土するものの、范傷がきわめて進んだ第五段階やそれ以上のものについては、7世紀第2四半期のものと推察されるとします。
次は、難波Ⅱ期と称する孝徳朝大化元年(645)の難波遷都から天智朝までです。7世紀中葉に難波宮が造営されるにともない、それ以前から難波にあった寺々の整備が進みます。四天王寺の場合、Ⅱa型式は、日本最初の天皇の勅願寺であって、舒明11年(639)に創建された百済大寺と推定される吉備池廃寺の瓦笵がもたらされて作成されたものです。
飛鳥の山田寺でも、Ⅱa型式をモデルにした軒丸瓦が中心として使われ、この文様の系統が全国に広まりますが、皇極3年(643)創建と伝えられる山田寺の瓦より四天王寺のものの方に早い要素が見られると谷崎氏は説きます。これは、当時は難波がいかに重視されていたかを示すものですね。
そして、大化4年(648)に阿倍大臣(内麻呂)が四天王寺の塔に仏像四躯を安置したとあるため、この頃には、四天王寺の整備はあらかた落ち着いていたと見られるとします。内麻呂は翌年没していますが、谷崎氏は、この内麻呂は孝徳朝の仏教政策に深く関与していたとし、その系統の人物が持統朝になって氏寺として安倍寺を造営していったと推定します。
そして、百済寺の南方400メートルの場所に位置する堂ヶ芝廃寺は、四天王寺Ⅱa型式の退化型であるⅡc型式によって創建されるため、7世紀第3四半世紀頃と見ます。
以下、谷崎氏は、これより後の時代の四天王寺、百済寺、阿倍寺の瓦、そして難波宮跡から出土した瓦などについて検討していきます。四天王寺は、この時期の史料は少ないものの、『続日本紀』の大宝3年(703)の記事では、四大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、弘福寺)に次いで記されているため、大寺として扱われていたと説きます。
谷崎氏は、瓦を運搬する道路についても考慮し、寺院の造営の増加とインフラ整備は平行していることに注意するなど、きわめて重要な指摘をしています。こうして見ると、大和政権と難波の結びつきの強さ、外交・交易の拠点となる港としての難波の重要さが改めて確認できますね。
それまで蘇我氏が技術を独占していた寺院造営が、飛鳥の都と外交の入り口である難波の中間にある斑鳩、そしてその難波そのものに、父母とも蘇我系の血を引き、馬子の娘をめとっているとはいえ、聖徳太子によって寺が建てられているのですから、これは外交政策と無関係であったとは考えられません。