聖徳太子研究の最前線

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新羅の積極外交と秦寺・四天王寺:近藤浩一「新羅・真平王代後期の対倭外交」

2020年12月26日 | 論文・研究書紹介
 推古朝当時の朝鮮半島は、高句麗・百済・新羅が対立したり手を結んだりする複雑な関係にありました。そうした中で、これらの三国は、倭国の軍事・外交面などの支援を望み、仏教関係の贈り物をしてきたというのが外交史の通説です。

 ただ、これはあくまでも『日本書紀』を資料とした日本側の視点であって、三国側の観点から見ると、また違った面が見えてきます。そうした試みの一つして新羅の側から検討してみた論文が、

近藤浩一「新羅・真平王代後期の対倭外交ー真平王時代の対倭制作と関連してー」
(『京都産業大学論集  人文科学系列』52号、2019年3月)

です。近藤氏は、新羅史を専門とし、様々な問題を論じている研究者です。

 この論文では、新羅の真平王(在位:579-632)の父である真興王(在位:540-576)の代から国王を仏教的世界観における聖王である転輪聖王とみなしたり、釈迦仏になぞらえたり、貴族を弥勒菩薩とみなしたりして秩序を構成してしていたことを確認します。つまり、仏教推進は国王の権力強化と重なっているのです。

 仏教やヒンドゥー教を利用したこういう権威づけはいろいろな国で見られるものですが、日本の資料しか知らず、「仏扱いするなどありえない」などと現代の常識で判断する研究者が多いのは困ったものです。隋を建国して仏教を復興し、菩薩天子と仰がれた文帝も、仏の化身とされていますし、女性の身で中国初の皇帝となった則天武后は弥勒の化身と宣伝されました。

 さて、真平王は、即位した年に倭国に仏像を送っていますが、以後は、百済との対立が激化したためか、百済と連携している倭国と新羅の関係は悪くなります。その間に、真平王16年(594)に隋に使者を送り、さらに唐が建国されると唐にも使者を送って領典客を設置し、外交関係を深めます。
 
 推古朝では、新羅との関係が悪化した時期に太子の弟を将軍として再三出兵しようとしておりながら、いずれも中止となっていますが、その後は新羅側が倭国に使いと品物を送ってきており、推古24年には仏像を送ってきています。これについて、近藤氏は、国王を頂点とする官制を整備し、唐との外交も充実させて国力を増した新羅が、自信をもって仏教外交を展開してきたものと説きます。実際、その数十年後に新羅は朝鮮半島を統一するに至っています。

 近藤氏は、新羅のこうした働きかけについて、新羅の仏教思想を伝播しようとした面もあったと推測しています。氏は触れていませんが、この頃には新羅の仏像作成技術は百済や高句麗を上回るようになっており、見事な仏像が造られています。

 近藤氏が着目するのは、真平王44年(622、に新羅使が持参した仏像は秦河勝の秦寺(広隆寺)に、また仏舎利・金塔・潅頂幡・小幡などは四天王寺に収められたことです。つまり、百済・高句麗の僧が住していて百済・高句麗と関係深い飛鳥寺は避けられ、聖徳太子と関係の深い寺に収められているのです。近藤氏は触れないものの、これは太子が新羅外交と関わっていたことを示すように思われます。蘇我馬子と百済との関係の深さは有名ですので。

 もう一つ近藤氏が重視するのは、この時、新羅使が唐に留学していた恵光その他の倭国の僧侶を送り届けていることです。このことは、長安で新羅の留学僧などを通じて新羅が倭国の留学生たちと交流していたことを示すものであり、そうした状況で新羅に送ってもらった以上、彼らは帰国後は唐と新羅に対して好意的な発言をすることになるでしょうし、それは倭国の外交政策にも影響を及ぼすでしょう。実際、これ以後、舒明天皇4年(632)、同11年(639)、同12年(640)と三回続けて新羅が倭国の留学僧や儒教の留学生を倭国に送り届けています。

 いずれにせよ、先の河上さんの論文紹介でも見たように、仏教は外交とも国内の秩序整備にも密接に結びついていました。国内で仏教流布を主導する者が、重要な国政や外交に関わらなかったなどということは考えられません。