井上亘氏の2度目の反論を本文記事として掲載したところ、森博達氏からそれに対する反論が寄せられましたので、本文記事として掲載します。おかげで問題点がだんだん明らかになってきました。
(ブログ作者:石井公成)
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井上亘氏の「応答」を読んで
森 博達
井上亘さん、コメント「『『日本書紀』の謎は解けたか』批判への応答」(2011年8月17日)を投稿して下さり、有難うございます。おかげでご高論の「核心」が明確になりました。
玉稿「『日本書紀』の謎は解けたか」の構成は次のとおりです。
一 中国音韻学
二 中古音の概要
三 「書紀音韻論」
四 「α群中国人表記説」
五 「書紀文章論」
六 「書紀編修論」
今回のコメントで「拙稿のポイント」として示された4点は、「四」と「五」に載せられているものですね。「三」が論点から外されているのは、α群原音依拠説に基いて上代の音価推定をした拙論を認められたのですね。石井先生が紹介してくださった代表的な書評からも分かるように、α群原音依拠説はすでに国語学界の定説になっています。平山先生との論争は19年前のものですが、論拠を提示されない平山先生の「α群倭音説」「α群原音―倭音説」を支持する意見など、国語学界には皆無です。
さて、「ポイント」のaは3点とも「四」の「α群中国人表記説」の根拠として、拙著(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』(以下『古』と略称)や『謎』で挙げたものです。「気音の識別能力」、「鼻音と鼻濁音との識別能力」、「濁音に用いられた全清音字」の3項目ですが、すべて拙著で丁寧に説明しています。該当箇所を読んで下されば起こり得ない誤解ですが、折角なので、ご質問に一つずつお答えします。
a(1)「無気音と有気音を区別できる日本人はいなかったのか」。日本語母語者も学習すれば中国語の全清音(無声無気音)と次清音(無声有気音)の区別はできます。α群中国人表記説の第一の根拠は気息音の識別能力にありました。書紀歌謡ではカ行を除いて次清音字が13字種・延べ156例ありますが、そのうち155例がβ群に偏在します。これはα群の表記者が中国語の全清音と次清音とを弁別でき、また日本語はカ行を除いて気息音が弱いと感じていたからです。
α群でもカ行にのみ次清音字を混用しているのは、日本語の破裂要素をもつ子音の中でも、カ行の気音(気息音、aspiration)が最も強かったからでしょう。それは現代日本語でも同様で、実験音声学的にも、また中国人による観察の結果からも確認されています(研究論文は拙著でご確認ください)。つまり、日本語には音韻論的な無気―有気の対立はありませんが、音声学的には子音によって気音の強弱があるのです。
拙著では次のように述べています。「無気音と有気音との音韻論的対立は、中国語にはあっても、日本語にはない。日本人の中国語学習者にとって最も聞き取りの難しいのが、この両者の区別である。音声学的な気音の強弱についても、当然、中国人が敏感なのに対し、日本人は鈍感である。したがって日本人であれば、中国語が堪能であっても、α群のように子音による条件的な気音の強弱を書き分けることは、きわめて困難である」(『古』149頁、『謎』104頁でも例も挙げて説明しています)。その困難さは、日本語母語者である井上さんが、日本語を聞いて個々の気息音の把握を試みられればお分かりになることでしょう。
a(2)「中国人説の指標とされた非鼻音化の例がβ群にもある」。α群中国人表記説の第2の論拠に関わる問題です。唐代北方音では[m₋>mb₋][n₋>nd₋]のような音声変化が進行しました。これを非鼻音化と呼びます。日本の呉音と漢音との間で、「米マイ→ベイ」「内ナイ→ダイ」と変わるのはその反映です。この非鼻音化は音声学的には進行に遅速がありました。すなわち₋ng韻尾をもつ漢字などは漢音でも「孟マウ」「嚢ナウ」のように鼻音で写されています(₋ng韻尾は唐代北方音では弱化し、₋angのように広い主母音をもつ韻母は鼻母音₋a~になりました)。α群の表記者が日本人ならば、マとバにはそれぞれ莽(mang>ma~)と麼(ma>mba)、ナとダにはそれぞれ嚢(nang>na~)と娜(na>nda)を使い分ければよいのです。しかしα群では麼をマ12例・バ10例に混用し、娜をナ1例・ダ6例に混用しているのです。
『謎』106頁では次のように述べました。「実は有坂氏が説くように、中国人は [m₋]と[mb₋]、[n₋]と[nd₋]とをそれぞれ相異なる音韻とは意識しませんでした。鼻音と鼻濁音とは中国人にとって同一の音韻でした。意識に上らない音声の相違にすぎなかったのです。けれども、外国人の耳にはその発音の相違は明瞭でした。そこで、中天竺出身の善無畏や日本人の漢音資料では明確に書き分けたのです。(中略)北方音の鼻音と鼻濁音との間には、意味の相違を担う音韻論的対立がなかったのです。一方日本人は両者を容易に区別できました。それゆえ、もしも日本語を母語とする者が表記したのであれば、ア列の鼻音と濁音との混乱は避けられたはずです」。
α群の仮名表記者は正音(唐代北方標準音)という単一の音韻体系によって日本語の音節をできる限り書き分けています。そこに見られる混用はα群の表記者が中国人であれば避けられないものなのです。一方、β群は漢音・呉音を取り交ぜており、どんな音韻体系で読んでも日本語の音節を区別できません。β群の表記者は中国人ではありえません。α群を真似て一部「正音」を装っていますが、所詮付け焼刃であって到る処で馬脚を露わしたのです。
例えば玉稿(92頁)で、私説に対する「反証」として「β群でのみ混用する例」を挙げています。その最初の「廼」はβ群でのみ用いられ、ド乙類6例・ノ乙類12例と混用されています。α群と同様の混同だと言われるのですね。しかし全く性格が異なります。「廼」は中古音〔咍〕韻字ですが、〔咍〕韻字をオ列に用いるのはβ群以外には、『古事記』『万葉集』といった呉音系の仮名にかぎられます。α群では〔咍〕韻字はエ列(乙類とア行エ)にしか用いられていないのです。
つまりド乙類の「廼」は、韻母は呉音系で声母は漢音系という珍妙な仮名なのです。『古』156頁で次のように述べています。「β群の表記者は正音(漢音)に暗く、α群を見て、呉音で鼻音の仮名が濁音になるという印象を得た。そして、韻母は旧来のままで、声母のみ漢音に似るという奇妙な仮名が作りだされたのであろう」。
結局、玉稿や井上さんのコメントでは、私説のそれぞれ一部のみを取り上げて、誤解ないしは曲解されているのです。玉稿92頁で、「このような反証を隠して論拠にあげているとすれば、とんでもないインチキになる」と言われていますが、それが誤解であることは明らかです。
a(3)「書紀編者が原史料の濁音を清音に訂正する理由はない」。史書の筆録編修は小説の創作とは異なります。史料(資料)に基づき述作するのです。書紀の場合も同様で、歌謡も資料として提供されていたことでしょう。しかしそれは新しい漢音系の仮名ではなく、『古事記』などと同様に呉音系の仮名で表記されていたと考えられます。例えば、『古事記』61番と書紀58番(β群巻11)は同一歌ですが、そこに「根白(ねじろ)の」という語句があり、ともに「泥士漏能」と表記されています。同一の資料に基づいた可能性があります。しかしα群は旧来の表記に囚われず、正音による音訳表記を貫徹したのです。玄奘三蔵の新訳の陀羅尼と同様です。
α群の中国人表記者は呉音の仮名は読めません。書紀編修所には日本人の助手もいるので、彼らに読み上げさせて正音で音訳表記したのでしょう。井上さんは、「原史料の濁音を清音に訂正する理由はない」と言われますが、高平調の濁音は音声学的に清音に近く聞こえる場合があるので、誤って全清音字を用いてしまったのです。古写本では誤用11例すべてに高平調の声点(アクセント符号)が差されています。これは偶然とは考えられません。
最後の「ポイント」は、b(1)「妻をイモと呼ぶ注一つだけで全体を覆うことはできない」というものです。α群巻14「雄略即位前紀」の「吾妹」に付けられた「称妻為妹、蓋古之俗乎」という非常識な分注の問題です。玉稿(99~100頁)では、「雄略紀以外はみな実の妻を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこう言う注記があってもおかしくない」と書かれています。これが嘘であることは前回のコメント(7月17日)で指摘したとおりです。
太田善麿先生は『古代日本文学思潮論(Ⅲ)』(91~92頁)で、この奇態な分注や「[木疑]字未詳、蓋槻乎」という分注などを挙げて、巻14~21・24~27(α群)の人物像を描かれました。この部分の編修者は日本の事情に精通せず、原資料を咀嚼する能力も欠如していると論じられたのです(『謎』176頁)。私のα群中国人述作説は音韻論と文章論の助けを得て、太田先生の喉元まで上がってきていた言葉を明らかにしたにすぎません。
α群には他にも不可解な記述がありますが、中国人述作説によれば納得できます。例えば、巻17「継体紀」の朝鮮関係記事では、己汶・帯沙(多沙津)割譲問題について、7年から10年にわたる事件と23年条の事件とが別個の事件として扱われています。9年2月条に、「百済使者文貴将軍等請罷。仍勅、副物部連【闕名】遣罷帰之。【百済本記云、物部至至連】」(【】内は分注)と記されています。一方、23年3月には、「是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以津賜百済王」という記事があります。三品彰英先生は『日本書紀朝鮮関係記事考證』下巻(2002年天山舎版による)226~7頁で、両者は同一事件を語ったもので、前者は『百済本記』によって書かれ、後者は日本側の所伝だと説かれています。物部至至連と物部伊勢連父根は同一人物ですが、α群の述作者は「至至(チチ)」が「父(ちち)」の仮名表記(借字表記) であることに気づかず、別人だと誤解し、両者を別個の事件として扱ったのでしょう。日本語に精通せず、朝鮮関係記事を咀嚼する能力に欠けていたのです(後者については他の証拠もあるが割愛します)。
以上、井上さんが「ポイント」と言われる4点について丁寧に説明しました(大半は拙著をしっかり読めば理解できる問題ですが)。井上さんの論点は悉く崩れ去りました。これはご高論の「題意を無視した」発言ではありませんよね。ぜひご反論をお願いします。(8月18日記)
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(ブログ作者:石井公成)
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井上亘氏の「応答」を読んで
森 博達
井上亘さん、コメント「『『日本書紀』の謎は解けたか』批判への応答」(2011年8月17日)を投稿して下さり、有難うございます。おかげでご高論の「核心」が明確になりました。
玉稿「『日本書紀』の謎は解けたか」の構成は次のとおりです。
一 中国音韻学
二 中古音の概要
三 「書紀音韻論」
四 「α群中国人表記説」
五 「書紀文章論」
六 「書紀編修論」
今回のコメントで「拙稿のポイント」として示された4点は、「四」と「五」に載せられているものですね。「三」が論点から外されているのは、α群原音依拠説に基いて上代の音価推定をした拙論を認められたのですね。石井先生が紹介してくださった代表的な書評からも分かるように、α群原音依拠説はすでに国語学界の定説になっています。平山先生との論争は19年前のものですが、論拠を提示されない平山先生の「α群倭音説」「α群原音―倭音説」を支持する意見など、国語学界には皆無です。
さて、「ポイント」のaは3点とも「四」の「α群中国人表記説」の根拠として、拙著(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』(以下『古』と略称)や『謎』で挙げたものです。「気音の識別能力」、「鼻音と鼻濁音との識別能力」、「濁音に用いられた全清音字」の3項目ですが、すべて拙著で丁寧に説明しています。該当箇所を読んで下されば起こり得ない誤解ですが、折角なので、ご質問に一つずつお答えします。
a(1)「無気音と有気音を区別できる日本人はいなかったのか」。日本語母語者も学習すれば中国語の全清音(無声無気音)と次清音(無声有気音)の区別はできます。α群中国人表記説の第一の根拠は気息音の識別能力にありました。書紀歌謡ではカ行を除いて次清音字が13字種・延べ156例ありますが、そのうち155例がβ群に偏在します。これはα群の表記者が中国語の全清音と次清音とを弁別でき、また日本語はカ行を除いて気息音が弱いと感じていたからです。
α群でもカ行にのみ次清音字を混用しているのは、日本語の破裂要素をもつ子音の中でも、カ行の気音(気息音、aspiration)が最も強かったからでしょう。それは現代日本語でも同様で、実験音声学的にも、また中国人による観察の結果からも確認されています(研究論文は拙著でご確認ください)。つまり、日本語には音韻論的な無気―有気の対立はありませんが、音声学的には子音によって気音の強弱があるのです。
拙著では次のように述べています。「無気音と有気音との音韻論的対立は、中国語にはあっても、日本語にはない。日本人の中国語学習者にとって最も聞き取りの難しいのが、この両者の区別である。音声学的な気音の強弱についても、当然、中国人が敏感なのに対し、日本人は鈍感である。したがって日本人であれば、中国語が堪能であっても、α群のように子音による条件的な気音の強弱を書き分けることは、きわめて困難である」(『古』149頁、『謎』104頁でも例も挙げて説明しています)。その困難さは、日本語母語者である井上さんが、日本語を聞いて個々の気息音の把握を試みられればお分かりになることでしょう。
a(2)「中国人説の指標とされた非鼻音化の例がβ群にもある」。α群中国人表記説の第2の論拠に関わる問題です。唐代北方音では[m₋>mb₋][n₋>nd₋]のような音声変化が進行しました。これを非鼻音化と呼びます。日本の呉音と漢音との間で、「米マイ→ベイ」「内ナイ→ダイ」と変わるのはその反映です。この非鼻音化は音声学的には進行に遅速がありました。すなわち₋ng韻尾をもつ漢字などは漢音でも「孟マウ」「嚢ナウ」のように鼻音で写されています(₋ng韻尾は唐代北方音では弱化し、₋angのように広い主母音をもつ韻母は鼻母音₋a~になりました)。α群の表記者が日本人ならば、マとバにはそれぞれ莽(mang>ma~)と麼(ma>mba)、ナとダにはそれぞれ嚢(nang>na~)と娜(na>nda)を使い分ければよいのです。しかしα群では麼をマ12例・バ10例に混用し、娜をナ1例・ダ6例に混用しているのです。
『謎』106頁では次のように述べました。「実は有坂氏が説くように、中国人は [m₋]と[mb₋]、[n₋]と[nd₋]とをそれぞれ相異なる音韻とは意識しませんでした。鼻音と鼻濁音とは中国人にとって同一の音韻でした。意識に上らない音声の相違にすぎなかったのです。けれども、外国人の耳にはその発音の相違は明瞭でした。そこで、中天竺出身の善無畏や日本人の漢音資料では明確に書き分けたのです。(中略)北方音の鼻音と鼻濁音との間には、意味の相違を担う音韻論的対立がなかったのです。一方日本人は両者を容易に区別できました。それゆえ、もしも日本語を母語とする者が表記したのであれば、ア列の鼻音と濁音との混乱は避けられたはずです」。
α群の仮名表記者は正音(唐代北方標準音)という単一の音韻体系によって日本語の音節をできる限り書き分けています。そこに見られる混用はα群の表記者が中国人であれば避けられないものなのです。一方、β群は漢音・呉音を取り交ぜており、どんな音韻体系で読んでも日本語の音節を区別できません。β群の表記者は中国人ではありえません。α群を真似て一部「正音」を装っていますが、所詮付け焼刃であって到る処で馬脚を露わしたのです。
例えば玉稿(92頁)で、私説に対する「反証」として「β群でのみ混用する例」を挙げています。その最初の「廼」はβ群でのみ用いられ、ド乙類6例・ノ乙類12例と混用されています。α群と同様の混同だと言われるのですね。しかし全く性格が異なります。「廼」は中古音〔咍〕韻字ですが、〔咍〕韻字をオ列に用いるのはβ群以外には、『古事記』『万葉集』といった呉音系の仮名にかぎられます。α群では〔咍〕韻字はエ列(乙類とア行エ)にしか用いられていないのです。
つまりド乙類の「廼」は、韻母は呉音系で声母は漢音系という珍妙な仮名なのです。『古』156頁で次のように述べています。「β群の表記者は正音(漢音)に暗く、α群を見て、呉音で鼻音の仮名が濁音になるという印象を得た。そして、韻母は旧来のままで、声母のみ漢音に似るという奇妙な仮名が作りだされたのであろう」。
結局、玉稿や井上さんのコメントでは、私説のそれぞれ一部のみを取り上げて、誤解ないしは曲解されているのです。玉稿92頁で、「このような反証を隠して論拠にあげているとすれば、とんでもないインチキになる」と言われていますが、それが誤解であることは明らかです。
a(3)「書紀編者が原史料の濁音を清音に訂正する理由はない」。史書の筆録編修は小説の創作とは異なります。史料(資料)に基づき述作するのです。書紀の場合も同様で、歌謡も資料として提供されていたことでしょう。しかしそれは新しい漢音系の仮名ではなく、『古事記』などと同様に呉音系の仮名で表記されていたと考えられます。例えば、『古事記』61番と書紀58番(β群巻11)は同一歌ですが、そこに「根白(ねじろ)の」という語句があり、ともに「泥士漏能」と表記されています。同一の資料に基づいた可能性があります。しかしα群は旧来の表記に囚われず、正音による音訳表記を貫徹したのです。玄奘三蔵の新訳の陀羅尼と同様です。
α群の中国人表記者は呉音の仮名は読めません。書紀編修所には日本人の助手もいるので、彼らに読み上げさせて正音で音訳表記したのでしょう。井上さんは、「原史料の濁音を清音に訂正する理由はない」と言われますが、高平調の濁音は音声学的に清音に近く聞こえる場合があるので、誤って全清音字を用いてしまったのです。古写本では誤用11例すべてに高平調の声点(アクセント符号)が差されています。これは偶然とは考えられません。
最後の「ポイント」は、b(1)「妻をイモと呼ぶ注一つだけで全体を覆うことはできない」というものです。α群巻14「雄略即位前紀」の「吾妹」に付けられた「称妻為妹、蓋古之俗乎」という非常識な分注の問題です。玉稿(99~100頁)では、「雄略紀以外はみな実の妻を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこう言う注記があってもおかしくない」と書かれています。これが嘘であることは前回のコメント(7月17日)で指摘したとおりです。
太田善麿先生は『古代日本文学思潮論(Ⅲ)』(91~92頁)で、この奇態な分注や「[木疑]字未詳、蓋槻乎」という分注などを挙げて、巻14~21・24~27(α群)の人物像を描かれました。この部分の編修者は日本の事情に精通せず、原資料を咀嚼する能力も欠如していると論じられたのです(『謎』176頁)。私のα群中国人述作説は音韻論と文章論の助けを得て、太田先生の喉元まで上がってきていた言葉を明らかにしたにすぎません。
α群には他にも不可解な記述がありますが、中国人述作説によれば納得できます。例えば、巻17「継体紀」の朝鮮関係記事では、己汶・帯沙(多沙津)割譲問題について、7年から10年にわたる事件と23年条の事件とが別個の事件として扱われています。9年2月条に、「百済使者文貴将軍等請罷。仍勅、副物部連【闕名】遣罷帰之。【百済本記云、物部至至連】」(【】内は分注)と記されています。一方、23年3月には、「是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以津賜百済王」という記事があります。三品彰英先生は『日本書紀朝鮮関係記事考證』下巻(2002年天山舎版による)226~7頁で、両者は同一事件を語ったもので、前者は『百済本記』によって書かれ、後者は日本側の所伝だと説かれています。物部至至連と物部伊勢連父根は同一人物ですが、α群の述作者は「至至(チチ)」が「父(ちち)」の仮名表記(借字表記) であることに気づかず、別人だと誤解し、両者を別個の事件として扱ったのでしょう。日本語に精通せず、朝鮮関係記事を咀嚼する能力に欠けていたのです(後者については他の証拠もあるが割愛します)。
以上、井上さんが「ポイント」と言われる4点について丁寧に説明しました(大半は拙著をしっかり読めば理解できる問題ですが)。井上さんの論点は悉く崩れ去りました。これはご高論の「題意を無視した」発言ではありませんよね。ぜひご反論をお願いします。(8月18日記)
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