井上論文では、『謎』はα群中国音説を、万葉仮名は当時の倭音に基づくとする有坂説への批判という形で展開するから「ひどく読みにくいものになってしまっている」(86頁)と評します。論点を明確にして中国音説を証明するためには、確かにもう少し工夫すべきかもしれません。
ただ、森氏が有坂氏を非常に尊敬していることは、『謎』が有坂氏の早熟さ・悩み・超人的な研究ぶりについて熱を込めて紹介していることからも知られます。『謎』におけるその部分は、有坂氏のことを一般読者に知ってほしいと願ってのこと、また音韻の詳しい話ばかりにならないようにという配慮もあってのことだろうと思い、読みにくいとは思わず読んでいました。
その有坂氏は、万葉仮名は倭音に基づくと説くだけでなく、だから万葉仮名を当時の日本語の音価測定に用いるには限界があると警告し、「但し万葉仮名字体の中に朝鮮や支那からの帰化人の始めて用ゐたものが含まれてゐるとすれば、そればかりは別問題であるが」と慎重に付言していました。『謎』はこの点を高く評価しています(77頁)。
43歳の若さで亡くなった有坂氏は、そうした視点の個別調査はしなかったのですが、『書紀』の仮名が基づく音を精査していくうちに、まさに有坂氏の付言が示唆していたような外国人一世筆記説という事態にたどり着いてしまったのが森氏です。
森氏のα群中国人述作説は、有坂氏とは別個の視点からおこなっていた研究であって、『書紀』のα群に限って有坂氏の倭音説を否定することになったものの、結果としては有坂説の「付言」が正しいことを実証し、有坂説を発展的に継承したものとなっていたのです。井上論文は、「天才的な音韻学者」である有坂の倭音説が正しいのに、『謎』は誤った有坂説批判をしているという方向で論じているためか、この点には触れてませんね。
問題は、この「朝鮮や支那からの帰化人の始めて用ゐたもの」という部分です。井上論文は、『謎』が中国人だからこそ清濁の音を間違ったとしてあげてある歌謡の表記例について、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料を、中国人がなぜわざわざ間違えて書き改める必要があるのか」と疑問を呈し、そんな必要はない以上、それは「偶然の誤りと見るほかない」(93頁)と断定します。
そして、「森ははじめに歌謡の音声があって、それが唐代北方の音韻体系のフィルターを通して仮名になったと考えている」が、中国人の編纂官が語り部を編纂室に呼び、語る内容をその場で中国音で書き取り、内容を漢文に翻訳するなどといったことなど考えられないとし、森は『書紀』の直接の材料はあくまでも書かれた「原史料」であって、それらの歌謡は既に「書かれたもの」であったことを忘れているのだろうと述べます。
井上論文は、それに続けて、「そこには古文献がどのように編纂されたかという、具体的な作業工程に対する配慮が抜け落ちている」のであって、「古文献の成立を具体的に考えたことがない門外漢の早とちりとしか言いようがない」と酷評しています(94頁)。
しかし、これは森説をきちんと受け止めていないばかりか、上代日本における史料や書記法の実態、つまりは『書紀』の「原史料」の実態ををまったく考慮していないコメントです。まず、「なぜわざわざ間違えて書き改める必要があるのか」とありますが、森説のように中国人が責任者となっていたとすれば、当人は不適切な漢字表記を改めて適切な漢字に直したと思っていたはずです。
また、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料」とありますが、上代における文書作成および漢字による日本語表記が、日本語とは音韻体系が異なる百済から渡来した人々を主とする朝鮮渡来人やその子孫たちによって推進されてきたことは常識です。
その人たちも列島に定住するようになれば日本人ということになるでしょうが(日本列島という概念自体、現代のものですが)、欽明紀などによれば、百済から交代で派遣されていた専門家たちの中には、百済風の長い名の人物に混じって、「五経博士の王柳貴」など、中国から百済に渡ってきた知識人ないしその子弟と思われる名も散見されます。そうした百済の学者や中国系の学者たちは、明治初期のお雇い外国人と同様、ないしそれ以上に重要な仕事をしたはずですが、彼らは何年か義務を勤めたのち帰国していましたので、日本人とは言い難いでしょう。
そうした学者たちは誤りの無い、あるいは誤りの少ない漢文が書けたでしょうが、人名・地名その他の日本語を漢字表記したとしたら、どの漢字を用いるか試行錯誤せざるをえなかったでしょう。当時の朝鮮語の音韻体系、特にどの音とどの音を混用していたかについては議論が続いている状況です。そうした百済・中国系の学者に習った者たちや、倭語にかなりなじんだ渡来系氏族たちが書いた史料もあったでしょうが、『書紀』の原史料として重視され、最近では百済渡来系氏族が書いたと推定されている百済三書が、いかに古くて特異な発音表記や語法で書かれているかはよく知られています。
そもそも、標準的な書記法を教える公立学校など、当時はありません。渡辺滋「日本古代における中国口語の受容と展開」(『訓点語と訓点史料』120輯、2008年3月)は、当時の日本語の書記法がいかに多様であったかに関する最近の研究成果を踏まえ、
「極端にいえば、寺・氏族・学統ごとに、異なる書記法が用いられていた可能性すら想像できる。『日本書紀』の編纂段階において、日本社会にはこうした多様な書記体系が併存しており、それが巻ごとの差異として表面化した可能性は高い」(37頁上)
と述べ、『書紀』の「本来の草稿段階では、さらに激しい傾向差が存在していたと考えるのが妥当であろう」(同、36頁下)と推測しています。
[この渡辺論文は、区分についてはα群β群など森氏の呼称を利用するとしつつも、「正統的な文献史学の方法論によれば、『日本書紀』の各群の筆記主体・編纂主体などを具体的に特定するのことは、まず不可能である。森氏による区分とは別に、各群の『述作者』に関する想定に関してまで同意している訳ではない点、付言しておきたい」(43頁下)と述べています。文献史学では、このようにα群β群の区分の有効性は認めるものの、『謎』の述作者論・編集過程論までは賛成できないという人が多いようですね。]
このほか、中国に渡って短期間あるいは長期間学んで帰ってきた者たちが書きとどめた史料もあったでしょう。ただ、隋や唐に渡って仏教や儒教を学んだ者たちの多くは、渡来系氏族の出身でした。つまり、『書紀』の原史料は、外国人、渡来人の一世、その子孫たち、そして彼らに習った者たち、それも中国に短期あるいは長期留学したことがある者とない者、そうした者たちに習った倭人など、まさに様々な時代の様々な国・地方(方言)・系統の人々による様々な書記法で書かれた雑多なものだったのです。誤写や錯簡も多かったことでしょう。
そうした状況である以上、そのまま使える漢文、我慢すれば使える下手な漢文部分はともかく、歌謡などを古くて変わった形で漢字音写したものについては、(中国人であれ、それ以外であれ)『書紀』の筆録に当たった者たちには理解できない箇所、何を指すかはおおよそ推測できても違和感を覚える箇所などがかなりあったことと思われます。実際、中国上古音(に基づく古い朝鮮漢字音)による古音系の表記などは、かなり早い時期から理解しにくくなっていた形跡があります。
編纂室に語部を呼んで語らせて記録するというのは、井上氏も説くように非現実的な想定ですが、責任者が中国人であれば、書かれた史料のうちの日本語の漢字音写部分の分からないところ、分かりにくいところは、編纂スタッフのうちで分かる者に読み上げてもらわざるをえないはずです。
そもそも、近代以前の書物は音読されるためのものでした。まして歌謡部分は歌われるものです。書名をあげての引用や詔勅などの場合は、下手な漢文でも意味がわかればそのままにしたとしても、日常では使わない表現も用いる歌謡の場合は馴染みの無い発音表記が続いていたら理解できません。中国人が漢字訂正の責任者であれば、そうした表記法で書かれた厄介な歌謡の漢字表記を訂正する際は、それを理解できるスタッフに読み上げてもらい、意味を説明してもらったうえで適切と思われる漢字に直していったことでしょう。どんな表記に出会っても、ただただ黙読して黙って訂正していく、などという現代風な編集風景は考えられません。
また、遠藤慶太「『日本書紀』の分註--伝承の複数性から--」(『ヒストリア』214号、2009年3月)では、『書紀』は奏進された翌年、講書がおこなわれたと伝えられていることが示すように、受講者、つまり貴族官人たちの前で読み上げられることが想定されており、そのために、正史としては異例のことながら最初から音注が付されていたことに注意しています。つまり、「『日本書紀』という<読みあげられる史書>の性格」(15頁上)と、律令祭祀を支える諸氏族の主張を配慮した「公的な性格」に着目するのです。
なお、注と言えば、井上氏と森氏との間で「妻のことを『妹(いも)』と呼ぶのは、古代の風習か(称妻為妹、蓋古之俗乎)」という注が中国人によるものかどうかについて、コメントの応酬がなされましたが、井上論文では、「この一点だけでα群全体を覆えるものなのであろうか」(99頁)と疑問を呈していました。
これについては、是澤範三「『日本書紀』分注の分類とデータベース化の問題」(『語文』92・93輯、2010年2月)が参考になるでしょう。是澤氏のこの論文では、問題の「いも」の注を含めた諸例をあげ、「このような倭義注がいわゆるβ群に存在しないことが注意される」(9頁下)と述べています。そして、上代における日本的漢字運用の様相を明らかにするため、分注のデータベースを作成中である氏は、区分論について「編纂者の問題として『日本書紀』の成立に深く関わる。分注の分析はその基礎となるもの」(11頁上)としています。
「いも」問題と似たような例をもう一つあげましょう。『書紀』の古訓中に見える古語「いろ」がどのような家族関係を示す語かを調査した金紋敬「日本書紀古訓『イロ』に関して--兄弟姉妹の例を中心に--」(『待兼山論叢』42、2008年12月)は、『書紀』では母子関係を示す際に、
α群:「同母~」4例、 「母~」2例(百済関連記事)
β群:「同母~」7例、 「母~」5例
と表記しており、α群は百済関連記事を除けば「同母~」で統一されており、「同母~」と「母~」の両方を等しく用いるβ群と異なることを指摘しています。
この他、α群とβ群の違いについては、井上氏が説くようにどちらが原音に近いかという「程度の差」(94頁)であって編纂時の「添削担当者のクセや能力差」(111頁)にすぎない、とするだけでは説明できない点、つまり、表現の問題だけでなく内容にまで関わるとする指摘が増えつつあります。このブログで紹介した天文観測記事の偏りの問題もそうですし、暦の違いなども重要な点でしょう。暦日の設定は大変な作業です。
さて、α群中国音説の問題に戻ります。井上氏は、論文の「おわりに」の部分で、2009年9月に森氏の報告(中国の大学での研究会)を聞いたところ、「彼は『謎を解く』の後、朝鮮漢文の研究に手を伸ばしているようだが、論旨はまったく変わっていなかった」(112頁)と、頑迷さを嘆くような口調で述べています。
しかし、森説に反対する井上氏にとしては、これはむしろ怖い状況と受け止めるべきだったのではないでしょうか。朝鮮漢文の研究に手を伸ばしているなら、古代朝鮮の漢字音や語法などについても研究を深めているはず、と想像されるからです。
実際、中国語音韻の研究者であった森氏は、百済史料を扱った木下礼仁『日本書紀と古代朝鮮』(1993年)にも助言と協力をしていたうえ(本文と「あとがき」に記されています)、『謎』刊行後、50歳を超えた身でソウルに渡って1年間、韓国語学習に努め、以後、韓国の古代韓国語研究者たちと交流しつつ研鑚を重ね、韓国語で講義や講演ができるようになられたようです。
そうでありながら、α群中国人述作説という「結論がまったく変わっていなかった」ということは、いったい何を意味するか。古代韓国語の音韻・漢字表記・特色ある語法などの研究を進めた後になっても、『書紀』のα群述作者ないし漢字音のチェック者について史学者が最も可能性が高いと考えそうな説、すなわち、「唐代音をある程度学び、あるいは中国に留学したことがある朝鮮渡来系氏族出身の知識人が書いたか漢字表記に手を入れた可能性もある」といった説に変化しなかった、ということですね。
さて、井上論文は、「われわれ文献学者は常識的に、記録された歌謡の仮名を訂正したと考える」とし、α群の『書紀』編纂者が仮名を訂正したのは、「『古事記』のような呉音系の仮名では中国人に読んでもらえないと思ったからであろう」(94頁)と述べていますが、これは想像説ですね。もしそうなら、『書紀』は中国人に読んでもらうことを目的の一つとして作成されたことになります。しかし、そんなことがあり得るでしょうか?
漢文で正史を編む以上、中国の史書を模範とし、できるだけ立派な漢文にしようとするのは当然ですし、科挙のために漢字音の統一に努めていた唐にならい、そうした唐の標準音にできるだけ近い発音の日本風漢字音である「漢音」を広めようとしていた政権が、『書紀』でもそれを用いさせたことは理解できます。しかし、『書紀』では、天皇を「天子」や「聖帝」などと呼んでおり、「皇帝の位に即く」といった表現もしばしば見られます。白村江の敗戦の後、そんな史書を唐に持参して披露したら、「日出処天子」国書の場合と同様、大問題となったでしょう。
国内では「皇帝」や「天子」などと称しておりながら、中国への国書では「~国王」と名乗ったり曖昧な表記を用いるなどの使い分けは、中国周辺の国家にはいつの時代も見られたものです。中華主義に立つ中国王朝は、自王朝以外が国書などで表立って、あるいは自国内で「帝」や「天子」と称するような行為を無礼とみなし、脅して改めさせたり、時には征討することさえありましたが、国力や状況によっては、相手国のそうしたやり口を承知していながら目をつぶる場合もかなりありました。
しかし、8世紀初頭の唐は強大な勢力を誇っていました。「天子」や「皇帝」といった語を露骨に使った東夷の史書など受納するわけがありません。日本の主権者が中国の「皇帝」と抵触しないよう曖昧な自称を用いて外交を行うようになったことは、称号だか個人名だかよく分からない「日本国王 主明楽美御徳(すめらみこと)」宛の玄宗の国書が物語っている通りです。
あるいは、井上氏は、日本国内の中国人に読んでもらうことを目的の一つとして『書紀』が編纂されたとするのか。いずれにしても考えにくいことです。「われわれ文献学者は」とあるように、井上氏は文献史学を代表する形で音韻学者である森氏の主張を批判し、「古文献の成立を具体的に考えたことがない」と非難するのですが、井上氏自身は、『書紀』の成立という問題を、原史料の書記法の問題まで含めてどの程度具体的に考えられておられたでしょうか。
音韻学者でも文献史学者でもない私自身はどうかと言えば、「仏教学者です」と胸を張って名乗れないのが残念なところです。ある講演の冒頭で述べたように、「仏教学の落第生であって、『アジア諸国における仏教がらみの冗談の比較研究』とか『仏教と酒と恋の関係』などといった周辺領域にばかり力を入れるようになった、雑で中途半端な研究者」といったあたりが正直なところでしょうか。教理研究も細々と続けてはいるのですが……。
【追記:2011年8月9日】
冒頭で「万葉仮名」と言っているのは、上代の文献に見られる漢字による日本語表記のことです。漢字表記が適切でないと仲間うちしか読めないことは、暴走族が「ヨロシク」を「世露死苦」、「ブッチギリ」を「仏恥義理(利)」などと書いていたのと同じです。上の場合、「世(よ)」は和語による訓ですので論外としても、「仏」は現代北京語では有声音のbではなくなり、末尾の t の音も失われていて fo(2声)、「義」は yi(4声)となってしまっていますので、「ブッチギリ」という日本語を聞いたことがある現代中国人であっても、暴走族のジャンパーの背中の「仏恥義理」という刺繍を見たら全くわからず、「仏が義理を恥じる? 何だこりゃ?」となってしまいます(「仏」の発音は、漢字文化圏諸国すべてで変化しましたが、日本語では「ブツ」、ベトナム語では phat、韓国語では pul となっていて周辺国では音節末尾の音が残っており、中国でも南方の一部の方言には残っています)。また、「行」は呉音では「ぎょう」、唐代音の日本風漢字音である漢音では「こう」、さらに後代の音では「行灯」の「あん」ですが、「行行行」と書いて、「ぎょうこうあん」と読め、というのも無理でしょう。
こうした例はもちろん極端すぎるものですが、呉音系の『古事記』や『万葉集』と違い、『日本書紀』は漢音を志向しておりながら、β群は歌謡表記に呉音を用いた箇所もあって複数の字音体系が混在しており、漢文も文法の誤りが多いのに対し、α群の方は一貫して唐代北方音に基づいた漢字音写がなされているうえ、中国人ならではの発音の間違いも含まれており、文章も漢文として問題無いのだというのが森説です。α群とβ群の漢字音写部分で同じ漢字を用いている箇所があっても関係ありません。
井上論文は「歌謡の原文だけはほぼ完全に手を入れるという方針も理解しがたい」(99頁)と批判しますが、引用部分の漢文は下手でもおおよその意味は推測できるのに対し、歌謡などの漢字音写はその当時の中国式の発音で書かれてないと理解できないのですから、漢字音担当の中国人であれば直すのは当然です。
ただ、森氏が有坂氏を非常に尊敬していることは、『謎』が有坂氏の早熟さ・悩み・超人的な研究ぶりについて熱を込めて紹介していることからも知られます。『謎』におけるその部分は、有坂氏のことを一般読者に知ってほしいと願ってのこと、また音韻の詳しい話ばかりにならないようにという配慮もあってのことだろうと思い、読みにくいとは思わず読んでいました。
その有坂氏は、万葉仮名は倭音に基づくと説くだけでなく、だから万葉仮名を当時の日本語の音価測定に用いるには限界があると警告し、「但し万葉仮名字体の中に朝鮮や支那からの帰化人の始めて用ゐたものが含まれてゐるとすれば、そればかりは別問題であるが」と慎重に付言していました。『謎』はこの点を高く評価しています(77頁)。
43歳の若さで亡くなった有坂氏は、そうした視点の個別調査はしなかったのですが、『書紀』の仮名が基づく音を精査していくうちに、まさに有坂氏の付言が示唆していたような外国人一世筆記説という事態にたどり着いてしまったのが森氏です。
森氏のα群中国人述作説は、有坂氏とは別個の視点からおこなっていた研究であって、『書紀』のα群に限って有坂氏の倭音説を否定することになったものの、結果としては有坂説の「付言」が正しいことを実証し、有坂説を発展的に継承したものとなっていたのです。井上論文は、「天才的な音韻学者」である有坂の倭音説が正しいのに、『謎』は誤った有坂説批判をしているという方向で論じているためか、この点には触れてませんね。
問題は、この「朝鮮や支那からの帰化人の始めて用ゐたもの」という部分です。井上論文は、『謎』が中国人だからこそ清濁の音を間違ったとしてあげてある歌謡の表記例について、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料を、中国人がなぜわざわざ間違えて書き改める必要があるのか」と疑問を呈し、そんな必要はない以上、それは「偶然の誤りと見るほかない」(93頁)と断定します。
そして、「森ははじめに歌謡の音声があって、それが唐代北方の音韻体系のフィルターを通して仮名になったと考えている」が、中国人の編纂官が語り部を編纂室に呼び、語る内容をその場で中国音で書き取り、内容を漢文に翻訳するなどといったことなど考えられないとし、森は『書紀』の直接の材料はあくまでも書かれた「原史料」であって、それらの歌謡は既に「書かれたもの」であったことを忘れているのだろうと述べます。
井上論文は、それに続けて、「そこには古文献がどのように編纂されたかという、具体的な作業工程に対する配慮が抜け落ちている」のであって、「古文献の成立を具体的に考えたことがない門外漢の早とちりとしか言いようがない」と酷評しています(94頁)。
しかし、これは森説をきちんと受け止めていないばかりか、上代日本における史料や書記法の実態、つまりは『書紀』の「原史料」の実態ををまったく考慮していないコメントです。まず、「なぜわざわざ間違えて書き改める必要があるのか」とありますが、森説のように中国人が責任者となっていたとすれば、当人は不適切な漢字表記を改めて適切な漢字に直したと思っていたはずです。
また、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料」とありますが、上代における文書作成および漢字による日本語表記が、日本語とは音韻体系が異なる百済から渡来した人々を主とする朝鮮渡来人やその子孫たちによって推進されてきたことは常識です。
その人たちも列島に定住するようになれば日本人ということになるでしょうが(日本列島という概念自体、現代のものですが)、欽明紀などによれば、百済から交代で派遣されていた専門家たちの中には、百済風の長い名の人物に混じって、「五経博士の王柳貴」など、中国から百済に渡ってきた知識人ないしその子弟と思われる名も散見されます。そうした百済の学者や中国系の学者たちは、明治初期のお雇い外国人と同様、ないしそれ以上に重要な仕事をしたはずですが、彼らは何年か義務を勤めたのち帰国していましたので、日本人とは言い難いでしょう。
そうした学者たちは誤りの無い、あるいは誤りの少ない漢文が書けたでしょうが、人名・地名その他の日本語を漢字表記したとしたら、どの漢字を用いるか試行錯誤せざるをえなかったでしょう。当時の朝鮮語の音韻体系、特にどの音とどの音を混用していたかについては議論が続いている状況です。そうした百済・中国系の学者に習った者たちや、倭語にかなりなじんだ渡来系氏族たちが書いた史料もあったでしょうが、『書紀』の原史料として重視され、最近では百済渡来系氏族が書いたと推定されている百済三書が、いかに古くて特異な発音表記や語法で書かれているかはよく知られています。
そもそも、標準的な書記法を教える公立学校など、当時はありません。渡辺滋「日本古代における中国口語の受容と展開」(『訓点語と訓点史料』120輯、2008年3月)は、当時の日本語の書記法がいかに多様であったかに関する最近の研究成果を踏まえ、
「極端にいえば、寺・氏族・学統ごとに、異なる書記法が用いられていた可能性すら想像できる。『日本書紀』の編纂段階において、日本社会にはこうした多様な書記体系が併存しており、それが巻ごとの差異として表面化した可能性は高い」(37頁上)
と述べ、『書紀』の「本来の草稿段階では、さらに激しい傾向差が存在していたと考えるのが妥当であろう」(同、36頁下)と推測しています。
[この渡辺論文は、区分についてはα群β群など森氏の呼称を利用するとしつつも、「正統的な文献史学の方法論によれば、『日本書紀』の各群の筆記主体・編纂主体などを具体的に特定するのことは、まず不可能である。森氏による区分とは別に、各群の『述作者』に関する想定に関してまで同意している訳ではない点、付言しておきたい」(43頁下)と述べています。文献史学では、このようにα群β群の区分の有効性は認めるものの、『謎』の述作者論・編集過程論までは賛成できないという人が多いようですね。]
このほか、中国に渡って短期間あるいは長期間学んで帰ってきた者たちが書きとどめた史料もあったでしょう。ただ、隋や唐に渡って仏教や儒教を学んだ者たちの多くは、渡来系氏族の出身でした。つまり、『書紀』の原史料は、外国人、渡来人の一世、その子孫たち、そして彼らに習った者たち、それも中国に短期あるいは長期留学したことがある者とない者、そうした者たちに習った倭人など、まさに様々な時代の様々な国・地方(方言)・系統の人々による様々な書記法で書かれた雑多なものだったのです。誤写や錯簡も多かったことでしょう。
そうした状況である以上、そのまま使える漢文、我慢すれば使える下手な漢文部分はともかく、歌謡などを古くて変わった形で漢字音写したものについては、(中国人であれ、それ以外であれ)『書紀』の筆録に当たった者たちには理解できない箇所、何を指すかはおおよそ推測できても違和感を覚える箇所などがかなりあったことと思われます。実際、中国上古音(に基づく古い朝鮮漢字音)による古音系の表記などは、かなり早い時期から理解しにくくなっていた形跡があります。
編纂室に語部を呼んで語らせて記録するというのは、井上氏も説くように非現実的な想定ですが、責任者が中国人であれば、書かれた史料のうちの日本語の漢字音写部分の分からないところ、分かりにくいところは、編纂スタッフのうちで分かる者に読み上げてもらわざるをえないはずです。
そもそも、近代以前の書物は音読されるためのものでした。まして歌謡部分は歌われるものです。書名をあげての引用や詔勅などの場合は、下手な漢文でも意味がわかればそのままにしたとしても、日常では使わない表現も用いる歌謡の場合は馴染みの無い発音表記が続いていたら理解できません。中国人が漢字訂正の責任者であれば、そうした表記法で書かれた厄介な歌謡の漢字表記を訂正する際は、それを理解できるスタッフに読み上げてもらい、意味を説明してもらったうえで適切と思われる漢字に直していったことでしょう。どんな表記に出会っても、ただただ黙読して黙って訂正していく、などという現代風な編集風景は考えられません。
また、遠藤慶太「『日本書紀』の分註--伝承の複数性から--」(『ヒストリア』214号、2009年3月)では、『書紀』は奏進された翌年、講書がおこなわれたと伝えられていることが示すように、受講者、つまり貴族官人たちの前で読み上げられることが想定されており、そのために、正史としては異例のことながら最初から音注が付されていたことに注意しています。つまり、「『日本書紀』という<読みあげられる史書>の性格」(15頁上)と、律令祭祀を支える諸氏族の主張を配慮した「公的な性格」に着目するのです。
なお、注と言えば、井上氏と森氏との間で「妻のことを『妹(いも)』と呼ぶのは、古代の風習か(称妻為妹、蓋古之俗乎)」という注が中国人によるものかどうかについて、コメントの応酬がなされましたが、井上論文では、「この一点だけでα群全体を覆えるものなのであろうか」(99頁)と疑問を呈していました。
これについては、是澤範三「『日本書紀』分注の分類とデータベース化の問題」(『語文』92・93輯、2010年2月)が参考になるでしょう。是澤氏のこの論文では、問題の「いも」の注を含めた諸例をあげ、「このような倭義注がいわゆるβ群に存在しないことが注意される」(9頁下)と述べています。そして、上代における日本的漢字運用の様相を明らかにするため、分注のデータベースを作成中である氏は、区分論について「編纂者の問題として『日本書紀』の成立に深く関わる。分注の分析はその基礎となるもの」(11頁上)としています。
「いも」問題と似たような例をもう一つあげましょう。『書紀』の古訓中に見える古語「いろ」がどのような家族関係を示す語かを調査した金紋敬「日本書紀古訓『イロ』に関して--兄弟姉妹の例を中心に--」(『待兼山論叢』42、2008年12月)は、『書紀』では母子関係を示す際に、
α群:「同母~」4例、 「母~」2例(百済関連記事)
β群:「同母~」7例、 「母~」5例
と表記しており、α群は百済関連記事を除けば「同母~」で統一されており、「同母~」と「母~」の両方を等しく用いるβ群と異なることを指摘しています。
この他、α群とβ群の違いについては、井上氏が説くようにどちらが原音に近いかという「程度の差」(94頁)であって編纂時の「添削担当者のクセや能力差」(111頁)にすぎない、とするだけでは説明できない点、つまり、表現の問題だけでなく内容にまで関わるとする指摘が増えつつあります。このブログで紹介した天文観測記事の偏りの問題もそうですし、暦の違いなども重要な点でしょう。暦日の設定は大変な作業です。
さて、α群中国音説の問題に戻ります。井上氏は、論文の「おわりに」の部分で、2009年9月に森氏の報告(中国の大学での研究会)を聞いたところ、「彼は『謎を解く』の後、朝鮮漢文の研究に手を伸ばしているようだが、論旨はまったく変わっていなかった」(112頁)と、頑迷さを嘆くような口調で述べています。
しかし、森説に反対する井上氏にとしては、これはむしろ怖い状況と受け止めるべきだったのではないでしょうか。朝鮮漢文の研究に手を伸ばしているなら、古代朝鮮の漢字音や語法などについても研究を深めているはず、と想像されるからです。
実際、中国語音韻の研究者であった森氏は、百済史料を扱った木下礼仁『日本書紀と古代朝鮮』(1993年)にも助言と協力をしていたうえ(本文と「あとがき」に記されています)、『謎』刊行後、50歳を超えた身でソウルに渡って1年間、韓国語学習に努め、以後、韓国の古代韓国語研究者たちと交流しつつ研鑚を重ね、韓国語で講義や講演ができるようになられたようです。
そうでありながら、α群中国人述作説という「結論がまったく変わっていなかった」ということは、いったい何を意味するか。古代韓国語の音韻・漢字表記・特色ある語法などの研究を進めた後になっても、『書紀』のα群述作者ないし漢字音のチェック者について史学者が最も可能性が高いと考えそうな説、すなわち、「唐代音をある程度学び、あるいは中国に留学したことがある朝鮮渡来系氏族出身の知識人が書いたか漢字表記に手を入れた可能性もある」といった説に変化しなかった、ということですね。
さて、井上論文は、「われわれ文献学者は常識的に、記録された歌謡の仮名を訂正したと考える」とし、α群の『書紀』編纂者が仮名を訂正したのは、「『古事記』のような呉音系の仮名では中国人に読んでもらえないと思ったからであろう」(94頁)と述べていますが、これは想像説ですね。もしそうなら、『書紀』は中国人に読んでもらうことを目的の一つとして作成されたことになります。しかし、そんなことがあり得るでしょうか?
漢文で正史を編む以上、中国の史書を模範とし、できるだけ立派な漢文にしようとするのは当然ですし、科挙のために漢字音の統一に努めていた唐にならい、そうした唐の標準音にできるだけ近い発音の日本風漢字音である「漢音」を広めようとしていた政権が、『書紀』でもそれを用いさせたことは理解できます。しかし、『書紀』では、天皇を「天子」や「聖帝」などと呼んでおり、「皇帝の位に即く」といった表現もしばしば見られます。白村江の敗戦の後、そんな史書を唐に持参して披露したら、「日出処天子」国書の場合と同様、大問題となったでしょう。
国内では「皇帝」や「天子」などと称しておりながら、中国への国書では「~国王」と名乗ったり曖昧な表記を用いるなどの使い分けは、中国周辺の国家にはいつの時代も見られたものです。中華主義に立つ中国王朝は、自王朝以外が国書などで表立って、あるいは自国内で「帝」や「天子」と称するような行為を無礼とみなし、脅して改めさせたり、時には征討することさえありましたが、国力や状況によっては、相手国のそうしたやり口を承知していながら目をつぶる場合もかなりありました。
しかし、8世紀初頭の唐は強大な勢力を誇っていました。「天子」や「皇帝」といった語を露骨に使った東夷の史書など受納するわけがありません。日本の主権者が中国の「皇帝」と抵触しないよう曖昧な自称を用いて外交を行うようになったことは、称号だか個人名だかよく分からない「日本国王 主明楽美御徳(すめらみこと)」宛の玄宗の国書が物語っている通りです。
あるいは、井上氏は、日本国内の中国人に読んでもらうことを目的の一つとして『書紀』が編纂されたとするのか。いずれにしても考えにくいことです。「われわれ文献学者は」とあるように、井上氏は文献史学を代表する形で音韻学者である森氏の主張を批判し、「古文献の成立を具体的に考えたことがない」と非難するのですが、井上氏自身は、『書紀』の成立という問題を、原史料の書記法の問題まで含めてどの程度具体的に考えられておられたでしょうか。
音韻学者でも文献史学者でもない私自身はどうかと言えば、「仏教学者です」と胸を張って名乗れないのが残念なところです。ある講演の冒頭で述べたように、「仏教学の落第生であって、『アジア諸国における仏教がらみの冗談の比較研究』とか『仏教と酒と恋の関係』などといった周辺領域にばかり力を入れるようになった、雑で中途半端な研究者」といったあたりが正直なところでしょうか。教理研究も細々と続けてはいるのですが……。
【追記:2011年8月9日】
冒頭で「万葉仮名」と言っているのは、上代の文献に見られる漢字による日本語表記のことです。漢字表記が適切でないと仲間うちしか読めないことは、暴走族が「ヨロシク」を「世露死苦」、「ブッチギリ」を「仏恥義理(利)」などと書いていたのと同じです。上の場合、「世(よ)」は和語による訓ですので論外としても、「仏」は現代北京語では有声音のbではなくなり、末尾の t の音も失われていて fo(2声)、「義」は yi(4声)となってしまっていますので、「ブッチギリ」という日本語を聞いたことがある現代中国人であっても、暴走族のジャンパーの背中の「仏恥義理」という刺繍を見たら全くわからず、「仏が義理を恥じる? 何だこりゃ?」となってしまいます(「仏」の発音は、漢字文化圏諸国すべてで変化しましたが、日本語では「ブツ」、ベトナム語では phat、韓国語では pul となっていて周辺国では音節末尾の音が残っており、中国でも南方の一部の方言には残っています)。また、「行」は呉音では「ぎょう」、唐代音の日本風漢字音である漢音では「こう」、さらに後代の音では「行灯」の「あん」ですが、「行行行」と書いて、「ぎょうこうあん」と読め、というのも無理でしょう。
こうした例はもちろん極端すぎるものですが、呉音系の『古事記』や『万葉集』と違い、『日本書紀』は漢音を志向しておりながら、β群は歌謡表記に呉音を用いた箇所もあって複数の字音体系が混在しており、漢文も文法の誤りが多いのに対し、α群の方は一貫して唐代北方音に基づいた漢字音写がなされているうえ、中国人ならではの発音の間違いも含まれており、文章も漢文として問題無いのだというのが森説です。α群とβ群の漢字音写部分で同じ漢字を用いている箇所があっても関係ありません。
井上論文は「歌謡の原文だけはほぼ完全に手を入れるという方針も理解しがたい」(99頁)と批判しますが、引用部分の漢文は下手でもおおよその意味は推測できるのに対し、歌謡などの漢字音写はその当時の中国式の発音で書かれてないと理解できないのですから、漢字音担当の中国人であれば直すのは当然です。
有坂秀世氏の人と学問については、有坂愛彦・慶谷壽信『有坂秀世言語学国語学著述拾遺』(1989年、三省堂)と慶谷壽信『有坂秀世研究―人と学問―』(『KOTONOHA』単刊No.4、2009年9月、非売品、古代文字資料館)が詳細を極めています。後者は慶谷先生のお弟子さんたち(愛知県立大の中村雅之氏等)が、有坂氏の生誕百年を記念して、慶谷先生の関連する論著を編集したものです。慶谷先生は有坂氏の人と学問に傾倒し、「前史―石塚龍麿から有坂秀世まで―」(『中国語学』228)を執筆した1981年以来、精力的に有坂氏の事績を追われました。徹底した追跡ぶりを拝見すれば、慶谷先生の思いの深さが分かります。
慶谷先生は東京都立大の名誉教授。先師水谷真成先生の名古屋大学における高弟で、私にとっては年の離れた兄弟子です。人格学問とも謹直で、音韻学の弟子を沢山育てられました。勉強嫌いで酒飲みの私には仰ぎ見て眩しい存在です。
有坂氏の倭音説と私見の関係については、ご指摘のとおりです。有坂氏は倭音説を取りながらも、さすがに慎重です。有坂氏が健康に恵まれていれば、必ず原音に依拠するα群を発見されていたはずです。その推測には根拠があります。
有坂氏より一歳年長で、28歳で夭折した音韻学者に永田吉太郎氏(1907-1935)がいます。7年間の闘病中、『音声学協会報』に多くの論文を寄せています。第23号(1931年3月)の「齒音喉音の關係について」から第41号(1936年4月)の遺稿「支那語音韻の輪廓」まで25本。分野は漢語音韻学、日本語音韻学、日本語方言等多岐にわたっています。
有坂氏も同じ『音声学協会報』に多くの論文を寄せています。第24号(1931年9月)の「Vokalharmonieの概念について」から第64号(1940年11月)の「メイ(明)ネイ(寧)の類は果たして漢音ならざるか」まで18本。両氏とも闘病中の命を削るように、学問に生の証を求めていたのでしょう。両氏の論文がともに掲載された号は、第24・26・29―30・33・34・36・40・41の8号にわたります。互いに存在を意識していたことでしょう。
問題はその第36号(1935年5月)です。永田氏は「日本紀歌謠の假名」(4-7頁)に掲載しています。書紀区分論は岡田正之氏の遺稿『近江奈良朝の漢文学』によって幕を開きますが、永田氏のこの論文は、仮名字種の偏在に着目した最初の区分論です。各巻の「相互共通假名比率」などの客観的な統計表を提示した最も説得力のあるものです。永田氏は統計表を分析し、書紀歌謡を二分し、「巻三系」と「巻一四系」と命名しました。
実はこの永田論文の直後に、有坂氏の「『音韻に關する卑見』中の用語の訂正」が掲載されています。永田論文は書紀歌謡の仮名の可視的・表面的な分布に着目して区分論を立てたものです。しかしそこで踏み込んで区分の本質を問えば、α群原音依拠説が導き出されたはずです。永田氏や有坂氏が健康に恵まれていればきっと発見していたことでしょう。
拙著『日本書紀の謎を解く』(1999)の「研究論」は、夭折した岡田氏と永田氏の業績を慰霊の念をもって顕彰したものです。また『古代の音韻と日本書紀の成立』(1991、大修館書店)や『日本書紀の謎を解く』の「音韻論」を執筆中、つねに有坂氏が傍らにいてくれました。
猛暑の折、ご自愛くださいますように。(2011.8.6記)