聖徳太子研究の最前線

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井上亘氏の「応答」に答えてその「核心」を検証する

2011年08月19日 | 論文・研究書紹介
 井上さん、詳しい反論を投稿してくださり、有り難うございました。

 異議を唱えたいことも多いのですが、これをきっかけとして『書紀』成立論の研究や『謎』の方法の活用が進むことを願っているため、ここでは井上さんがご自分の批判の「核心」とされる点と、今後この方面の研究を進めていくうえで重要と思われる箇所だけコメントすることにします。

> このような論点の整理もせず、随想ふうに問題点を書き立てて
> も決して批判にはならないでしょう

 連載の最初に述べたように、私は梵語の漢字音写と漢字音の関係には関心を持っており、その方面の論文などは多少読んできたものの(あとは仏教の音義関係で興味を惹かれたものを読んでいた程度)、音韻学ついては素人なので立ち入ったことを書くのは遠慮してその面は森博達さんや他の専門家におまかせした結果、音韻関連以外の問題点ばかり指摘することになりました。

 それでも、井上論文には強引な議論がこれほど多いことを示した以上、「肝心の音韻をめぐる議論も同様ではないか」ということになったと思いますし、連載の第四回目では、井上説の大前提となる「唐代の中国人ならば本来、濁音と清音を間違えるはずがない」(93頁)という主張は誤りであることを示したのですから、批判になっていないとは思いません。ただ、これまでのような書き方は随想的で「批判にはならない」と言われるのであれば、森さんの再々反論と重複してしまう部分が多いものの、井上論文の「ポイント」だという点について思い切って論じてみましょう。

> 拙論のポイントは、a(1)無気音と有気音を区別できる日本人は
> いなかったのか、a(2)中国人説の指標とされた非鼻音化の例が
> β群にもある、a(3)書紀編者が原史料の濁音を清音に訂正する
> 理由はない(偶然の誤りと見るほかない)、b(1)妻をイモと呼
> ぶ注一つだけで全体を覆うことはできない、以上の4点であり、
> その他の論点は補助的なものにすぎません。拙論を批判するな
> ら、この4点を論破すればよいのです。

 a(1)は「唐代の中国語には濁音の声母もあったので、当時の日本人は現代のわれわれよりも声母の清濁と気息の有無にずっと敏感であった」(90頁)という点が前提となっており、また、a(3)は「唐代の中国人ならば本来、濁音と清音を間違えるはずがない」(93頁)という点が前提となっていました。この二つの前提は関連しています。

 しかし、唐代の濁音に関するそうした主張が正しくないことは、連載第四回目で引用したように、大島正二氏が、長安で生まれ育った顔師古が641年に完成した『漢書』注の音義注部分には「清:濁の混同例」が見られると指摘していた通りです。それが唐代北方音、具体的には長安音の実態でした。

 また、長年修正を重ねて元和2年(807)にひとまず完成を見た慧琳の『一切経音義』が、伝統に基づいた『切韻』(601年)の音韻体系から大きく変化し、日本の漢音の母胎となった秦音(長安音)を前面に打ち出していることはよく知られていますが、慧琳のこの『音義』が『韻英』とともに現代音の根拠とし、3857回も引用していた秦音重視の『考声切韻』を書いた張{晉戈}は、則天武后が帝位についていた周(690-704)の時代に活躍した人です。

 つまり、『書紀』成立前の段階で、現実の長安音においては全濁音の有声性は弱くなっており、「唐代の中国人ならば本来、濁音と清音を間違えるはずがない」という井上説とは異なる状況となっていたのです。

 唐末・宋初の成立である『韻鏡』に濁音の枠が残っていることを井上氏は強調しますが、先にあげた大島正二『唐代字音』「V.唐代字音総説」などは、唐代の知識人にとって規範となった『切韻』の音韻体系と唐代における実際の発音の「ずれ」について詳論しています。濁音の枠が残っているからといって、そうした枠に配当されている字の長安音が日本人にとって濁音に聞こえるほど有声性が強くなかったことは、全濁声母の字を清音で写している日本の「漢音」が示すところであって、この点について音韻学者の間で異論が出されたという話は聞いたことがありません。

 規範と実態の「ずれ」に関する現代の例をあげてみましょう。私は、「裏付け」の「付」を仮名にする場合は、伝統的な規範に従って「裏づけ」と書くのが常であり、「裏ずけ」とは書きません。しかし、だからと言って「づ」と「ず」を発音し分けているわけではありませんし、子供や若い人の中には「裏ずけ」と書く者もいるでしょう。『切韻』系統の唐代の韻書や音義などが、濁音と清音を区別しているのは、(1)伝統に従ってのことか、(2)有声性:無声性の対立以外の要素による、と考えられることは、大島氏が強調していたところです。

 また、a(1)関連では「当時の日本人は現代のわれわれよりも声母の清濁と気息の有無にずっと敏感であった」(90頁)としていますが、α群では、日本語中では例外的に気息が強いカ行についてのみ例外として次清音字(有気音)の字を用い、カ行以外ではそうした有気音の字は徹底して避けていたのに対して、β群ではそのような配慮がされていないことを森説は示していました。つまり、当時の日本人が全般的に「気息の有無にずっと敏感であった」とは言えないことになります。

 入唐して学んだ結果、「無気音と有気音を区別できる」ようになった日本人はいたかもしれませんが、中国語の達人となったとしても、日本で生まれ育ったのであれば、日本語の清音と濁音を聞き分け、また発音し分けることが出来たでしょうから、そうした人がα群を担当し、日本人から見ておかしい清音・濁音の混同を11箇所もの所でするとは考えにくいことです。

 井上論文では、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料を、中国人がなぜわざわざ間違って書き改める必要があるのか」と疑問を呈し、そんな必要はない以上、清・濁の混同は「偶然の誤りと見るほかない」(93頁)と主張していました。しかし、古代に文書作成を担当し、日本語を漢字で表記するやり方を工夫したのは、日本語とは音韻体系が異なる百済系を主とする渡来人やその子弟が中心だったのであって(南朝から百済に渡っていて、日本に五経博士などとして数年交代で派遣されていた中国人(系)学者を含む)、『書紀』の材料となったものは、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料」などといったものでないことは、連載第二回目に詳しく論じておきました。

 古韓音や呉音などによって(ごく一部に中国音もあった?)、それもばらばらの用字法でそれぞれの時代の日本語の濁音の発音に近い仮名表記がしてあったとしても、『書紀』は唐代北方音に基づく「漢音」での表記が基本方針なのですから、直さざるを得ません。また、清音と濁音を混同するようになっていた中国人が直したとしたなら、当人は古くさくて不適切な表記を今風の適切なものに直したと考えていたはずであって、「わざわざ間違って書き改め」たつもりはないでしょう。

 したがって、a(1)とa(3)は成り立ちません。

> 特に拙論で最も失礼な物言いをしたa(2)の「とんでもないインチキ」
> などは、まず最初に「たしなめられる」べきなのに、石井先生も森先
> 生も何もおっしゃらない。

 a(2)に触れなかったのは、冒頭で述べたのと同じ理由によりますが、この点についても「核心」を突いてみましょう。

 α群は中国人の作だからこそ、唐代北方音における非鼻音化による鼻音と鼻濁音の混用という現象が見られるとする森説に対し、井上論文は、森『古代の音韻と日本書紀の成立』(以下、『古』)資料篇の仮名分布表を見て、字によってはβ群でも混用している例が存在する以上、β群も中国人作ということになってしまうと批判します(92頁)。しかし、森説によれば、β群はα群が成立した後、日本人述作者がα群を参考にして書いたとするのですから、α群に見える混用例がβ群にあってもかまいません。
 
 問題は、井上論文が、β群のみが混用している例もあるとし、「廼」を「ド(do)」と「ノ(no)」の音として混用していることをあげている点です。この字は、通常の漢音では「ダイ(dai)」、呉音では「ナイ(nai)」です。つまり、dの音は漢音系ですが、冒頭のd、nに続く部分はいずれも ai でなく o となっています。これについては、昨日の森さんのコメントでも書かれていましたが、『古』155頁では「廼」の系統の字をそのように読むのは「呉音系(またはそれ以前)の仮名と共通」していることを指摘していました。この場合、oの部分だけ、古い字音に基づいているのです。

 つまり、「廼」を「ド」という音を示す字として用いるのは、漢音という新しい発音体系と古い発音体系を1字のうちに混在させた「奇妙な仮名」ということになるのです。『韻鏡』を見て「濁音の枠が残っている」ことに着目して音韻学の通説と異なる議論を展開した井上氏は、『古』の仮名分布表を見た際は、「β群だけに見える混用例もある」ことを発見したと思いこみ、それはβ群ならではの特殊な例であるとする説明が『古』でなされていることを、見落としていたのです。

 井上氏はまた、「怒(ド=α群2例・β群ゼロ、ノ=α群ゼロ・β群4例)」と「奴(ド=α群ゼロ・β群2例、ノ=α群4例・β群ゼロ)」のように、『書紀』全体としては混用が見られるものの、どちらの音を用いるかはα群とβ群できれいに分かれているものもある以上、α群とβ群は似ていることになり、β群も中国人作ということになると説いています。

 しかし、β群にしても基本としては当時の漢音を用いていたうえ(問題はβ群はα群と違って、呉音も含めた複数の字音体系が混在していたことです)、鼻音要素を持つ声母は他にないため、α群がドだけでなくナ行の仮名にも「奴」のような鼻音声母の字を用いざるを得なかったことは、『古』が説いている通りです(110-1頁。森博達氏の示教による)。また、「怒(ド・ノ)」や「奴(ド・ノ)」などは、そもそも 2例とか4例であって数が少ないのですから、中国人が書いた以上、『怒』や『奴』についてもα群内部に混用した例があって当然だということにはなりません。

 ですから、a(2)も成り立たず、aの3点は全滅です。ところが、井上氏はこの「廼」や「怒」「奴」などに注目し、「このような反証を隠して論拠にあげているとすれば、とんでもないインチキということになる」と非難していたのです。

 次は、b(1)の分注に関する議論です。
 
> わずか注一つでα群全体の筆者を特定するのは無理です

 『謎』では、それ以前の部分で太田善麿の分注論を紹介していました(176頁)。太田は、妻を「妹」と呼ぶのは古代の俗かという分注について、「この部分の編修者が這般の事情に精通しなかったため、奇異の感を抱いた結果と想像される」と述べ、それ以外にも似たような例が2点あることについて、「原資料の保存に比較的忠実ではあったけれども、しかしそれを咀嚼し、消化するには少し欠ける憾みをもった担当者の傾向」を指摘しています。『謎』は、これについて、「決定的な言葉が、太田の喉元まで上がってきている」と述べます。

 つまり、日本人が書いているのではない、ということです。太田はそれ以上は明言できませんでしたが、そうした例は複数あげられています。『謎』は「わずか注一つ」で決定したのではなく、『書紀』の分注に関する太田の研究を踏まえ、さらに一歩進めたのです。また、「妻のことを『妹』と呼ぶのは古代の風俗か」といった倭義注はα群に限って登場すると是澤範三氏が指摘していることは、連載二回目の記事で紹介した通りです。

 以上、井上氏の批判の「ポイント」となるという4点は、すべて成り立ちませんでした。しかも、井上氏は、肝心の森氏の本そのものをきちんと読まずに論難していたのです。

> また、a(3)の原史料の問題については今回、石井先生がいろいろ
> と補足されていますが、歌謡の原史料を渡来人が書いたとして、
> そこに誤りがあったなら、それはもう中国人説ではなくて渡来人
> 述作説ですし、音読して校正(校讐?)した可能性なども証明困
> 難です。

 私が問題にしたのは、井上論文のうち、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料」(93頁)という点です。『書紀』の材料となったのは、そのようなものばかりのはずはなく、日本語を漢字で表記するというのは、朝鮮・中国系の外国人、朝鮮渡来人一世、そうした渡来氏族の子弟たちを中心とする人々(唐に留学した人たちを含む)の試行錯誤の賜物であって、しかもその書記法は新旧や系統によって様々であったうえ、誤写・錯簡もあって読みにくいものだったはずだ、と書いたのです。

 これは、日本語の書記法に関する最近の研究に基づくものであって、確かに推定ではありますが、「日本人の(おそらく濁音を正しく書いた)原史料」という楽観的な想像よりは史実に近いでしょう。

 そうした原史料の中には、その当時の日本語の発音に近い漢字音写がされたものがあったとしても、長安音に基づく漢音による表記で完璧に統一しようとすれば、古韓音や呉音、それも様々な用字法でなされたこれまでの史料の表記は不適切ということになりますので、書き直さなければならないのは当然のことです。中国人によってそうした最終的かつ統一的な訂正がなされていれば、原史料を誰が書いたにせよ、「α群渡来人述作説」ということにはなりません。

 また、「音読して校正(校讐?)した可能性」など証明困難と言われますが、私が大学時代に習った中澤希男先生(加藤常賢の弟子? 非常勤講師で来ておられて70歳の停年直前でした)などは、「わしらのような儒者は……」というのが口癖の古いタイプであって、文章の内容について考える際は漢文を口の中でぼそぼそと直読してから説明されました。また、古典の文句を例にあげる時は、本など見ずに訓読文を朗々と暗誦で読み上げたものです。まさに素読です(細川護熙元首相なども、学問の細川家だけあって、戦争中に叱られながら『論語』などの素読をさせられた由)。

 漢詩の講習でちょっとだけ習ったある中国人の老先生に至っては、説明に当たって漢詩を読み始めると、次第に目をつぶり身体をゆらしながら節をつけた朗唱調になっていき、すっかりいい気分になって「ハー」と嘆息するばかりで、詩境からなかなか戻ってきてくれないので、我々受講生は困ったものでした。

 中国でも日本でも、昔はそのように本を音読する人、暗唱する人が多かったことは様々な史料が示すところですし、朗読に堪えないようなものは、漢文ではありません。「難しい字が並んでいて、読めない字もいくつかあったが、何度か眺めているうちにおおよその意味はつかめた」などという読み方が主流であったなら、問題の顔師古の『漢書』注を初めとして『文選』その他、音注を数多く含む古典の注釈が唐代に次々に著されるはずがありません。黙読ばかりの人では科挙に通らないでしょう。

 そもそも、井上論文では、奈良時代に大学で学ぶ学生は「経文を暗記してからはじめて講義を聴くことができた」(103頁)ことに注意していたはずです。そうした古代の社会において、朝鮮渡来系氏族を中心とする人々が古韓音や呉音など新旧様々な字音や用字法で仮名表記した歌謡を含む史料を編纂して漢文の書物、それも講書において読み上げられるべき正史に仕立てていく古代の学者が、黙って原史料を読んで黙って直すなど、まったく考えられません。中国人が担当であれば、わからない個所については日本人のスタッフに読み上げてもらったり、説明してもらうなどしたうえで、適切と思われる発音の漢字表記に改めたはずです。詳しくは連載第二回目に書いた通りです。

> その倭習じたいに推古朝から奈良朝(ここはもちろん元明朝
> の意味です)に至る年代観のような指標がなく、またβ群の
> 年代も信じがたい以上、ここの誤用論は成立論にもまた思想
> 研究にも資するところがないと判断せざるを得ません

 『謎』がこれまで知られていた以上に倭習を数多く指摘し、しかもその分類を行なったことは大きな功績です。倭習の年代変化を明らかにするのというのは、次の段階の作業でしょう。一気にそこまで要求するのは無理な話であって、ぜひ必要だと思うなら、『謎』が用例と誤用発見の方法を示してくれているのですから、自分でやれば良いのです。「この誤用は年代によって使用頻度が違う」といった例を一つ二つあげ、だから『謎』の誤用論は不十分だと指摘しておれば、井上論文の批判の説得力が増していたことでしょう。それでこそ、建設的な批判です。

 『謎』の誤用論は「憲法十七条」の「成立論にも思想研究にも資するところがない」と断言するのは、どのような文体で書かれているかを無視して成立年代や思想を考えようとするものです。つまり、自分は「憲法十七条」を文章として読んでおらず、目についた単語だけ拾って考えている、ということを天下に公言するものにほかなりません。

 「意と事と言とは、みな相称へる物」と説いた宣長が聞いたら、嘆くことでしょう。文体研究に学者生命をかけ、「憲法十七条」についてもそうした面を中心にして論じていた吉川幸次郎も、「音読して文章として読まないなら、漢文を読んだことにはならん」と言いそうな気がします。音読にこだわり、ちょっとした表現の違いをどこまでも追求していく吉川の学風については、その「聖徳太子の文章」が示していた通りですし、昔、杜甫の詩について講義した『華音杜詩抄』というカセットテープ本を聞いて、その片鱗をうかがいました(学生による韓国語やベトナム語での杜詩朗読も入ってました)。

 私自身は、三経義疏の倭習の検討に追われ、「憲法十七条」の倭習に正面から取り組んだ論文を書くことができずにいることを残念に思っています。内容から見れば、天武朝やそれ以後の作とは考えがたいのですが、森説が指摘するようにβ群の倭習と共通する箇所が多いことは確かであるため、推古朝説をとるのであれば、森説をきちんと受け止めて自分なりの考えを述べる必要があります。

> おっしゃるように「無声化の時期は声母によって異なっていた」
> わけですから、森説で指摘された清濁混用例(10例はやはり少な
> いと思いますが)の一つ一つを検証する必要があるはずです。

 森説を批判するのであれば、自分で検証して森説の誤りを示せば良かったのではないでしょうか。もっとも、森『古代の音韻と日本書紀の成立』では、声母による無声音化の遅速とα群の「清:濁」混同例との関係が具体的に説かれています(46~49頁、102頁)。これも、森氏の本をきちんと読まずになされた発言ですね。

> なお、漢音を伝える古写経類の訓注が一般に平安時代に下ること
> は言うまでもありませんが、『平中物語』第二段に「見つ(見た)」
> と「水」を掛けた例があり、仮名表記の問題をふくめて、日本側の
> 清濁の問題もそれほど単純ではないと思います。

 物語であれば、「物語の祖」と言われ、下ネタを含む親父ギャグ満載の『竹取物語』の和歌に「鉢(ハチ=恥[ハヂ])を捨て」という駄洒落が見えます。『古今集』物名冒頭の藤原敏行の和歌では、鶯の「うぐひす」と「憂く干ず(うくひず=つらいことに乾かない)」を掛けてます。こうした洒落、特に和歌における掛詞は仏教と関係が深く、『竹取物語』のこの例にしても『維摩経』に基づく坊さんのたちの内輪の冗談であったらしいこと、敏行の歌も自業自得を歌ったものであることを含め、私はいくつか関連論文を書いてますが、掛詞にあっては、清濁の違いをわきまえたうえで似た音の掛け具合を楽しんでいたのが実状のようです。掛詞については、国文学では平仮名の登場も大きいことが指摘されています。

 また、「日本側の清濁の問題」については、佐々木勇「日本漢音資料に見られる全濁声母字の濁音形」(『小林芳規博士退官記念国語学論集』、汲古書院、1992年)では、「全濁声母字は、日本漢音ではいわゆる清音であったと考えてよい」(661頁)のであって、平安や鎌倉時代の文書に濁音になっている例が見え、しかも次第に増えているのは、仏教勢力を中心とする呉音の影響と考えられるとされています。最近の研究は知りませんが。

> さらに個人的な印象を申せば、誤用論はまず訓点資料のない
> 奈良時代以前の「訓読」の様相に直結する問題であって、文
> 献学への応用はそのあとの課題ではないかと思っております。

 前半はその通りです。三経義疏の誤用を調べていると、確かに、日本における最初期の訓読のあり方を考える必要があることを痛感させられますが、その面できちんとした成果を出すためには、それだけで数十年はかかってしまうでしょう。ただ、その研究の基礎となる古代朝鮮の状況、つまり、吏読や角筆を初めとする新羅の漢文読解のし方などについては、私は少々調べている程度ですが、森さんは既にかなり研究されているはずです。つまり、道はまだ遠いものの、準備は既に始まっているのです。

 ご意見を拝見していると、「泳げるようになるまでは、危ないからプールや海に入ってはいけません」と言っているように聞こえます。そこまで厳密に学問的な手順を踏むべきだ、慎重な準備が必要だということであれば、文献学の立場で『書紀』を研究して論文を書いている方たちは、必要な基礎知識のうち漢文だけに限っても、中国漢文、朝鮮俗漢文、仏教漢文、和風漢文にどれだけ通じてから研究に取り組まれているでしょうか。慎重を期す必要はあるものの、試行錯誤でやっていくほかないのではないでしょうか。

 井上さんは幅広い分野について精力的に研究しておられるのですから、この方面でも活躍できるはずです。「応答」によれば、「憲法の成立については別の考えがあり、近く北京で発表する予定」とのことであって、非常に楽しみですので、さしあたっては、そこで森説についても評価できる部分はきちんと評価して活用し、新たな成果を示してくださることを期待しています。

【追記:2011年8月20日】
 「奈良時代以前の「訓読」の様相に直結する問題」という点については、『謎』の誤用論こそがこの問題を研究するうえで有益な方法とデータを提示していると指摘するのを忘れてました。
 「書かれた史料」という点に関しては、誤写・錯簡などに加えて、判別しがたい異体字の問題もあげておくべきでしたね。唐代になると書体の統一が進みますが、南北朝末期にはいかに多様で時に勝手な書体が行われていたかはよく知られており、私にしても敦煌文書や三経義疏の妙な異体字には困らされています。書かれた史料なら読めるというものでないことは、井上氏はよく御存知のはずです。
 「日本側の清濁の問題」というのは、和歌を記した奈良時代の木簡などに「我」を「カ」の音の表記として用いるような清濁混乱した仮名表記が見られることなどを指すのかもしれませんが、そうした例は「ともかく読めればいい」というレベルの私的な文献に多いことが知られており、当時の音韻の問題というより、書記法ないし書き手の意識の問題として扱うのが現在の国語学の見解と思います。日本語の清音の特徴と唐代北方音の全濁音・全清音の対応関係ということであれば、『古』109頁・143-144頁で論じられています。
 なお、「稀男」を「希男」に改めたほか(中澤先生、スミマセン)、脱字や数字の誤記などを訂正し、文意を明確にするために文言を数カ所改めましたが、論旨に関わるような修正はしていません。また、関係する前の記事に飛べるようリンクを張っておきました。
【追記:2011年8月21日】
 連載を読んでいないと分かりにくい部分があったため、少しだけ連載の内容を足しました。書名の誤記なども訂正しました。