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「『日本書紀』の謎はとけたか」批判への応答……井上亘氏自身による反論コメント

2011年08月17日 | 論文・研究書紹介
 井上論文への私の批判記事連載に対して、井上亘氏がコメント欄に3回分割でコメントを寄せてくださいました。有り難うございます。読みやすさを考慮し、井上氏の了解を得て、森博達氏の長大なコメントの場合と同様に本文記事とさせていただくことにしました。
(ブログ作者:石井公成)

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「『日本書紀』の謎は解けたか」批判への応答

                   井上 亘

 北京大の井上です。拙論について4回にもわたる長文のご批評をお寄せ下さり有り難うございました。大変興味深く拝見しました。特に二十代に書いた博士論文やその書評まで周到に調べられたご苦労はいかばかりかと拝察いたします。さらにそこから私の人間性や編者の責任まで問われた点に至っては、ただただ恐縮するばかりです。

 ただここのところ、「滑稽」という言葉に二十代から現在(四十代)に及ぶ私の浅はかさを言われた点は、それじたい本当のことだと認めたうえで、なおご高評の問題点がほの見えるところではないかと思いました。二十代の私は「実証」という課題に大変苦しんでいました。この点は三十代に幾分改善されたと思っておりますが、榎村・内田両氏の批評はまさにこの点を突いたものでした(善意に解すれば、ですが)。翻ってこの度のご高評は今回の拙論にも同じ問題があると言われる。同じ字面でも、十五年ほど前といまとではそれを産み出すプロセスが全くちがいます。それで「あいつは変わらない」と言われれば、私としてはそういう読み方をする方なのかと思ってしまいます。

 拙論のプロセスはこうです。森説の、音韻論を前提とした中国人表記説は成立しない。また、誤用論を前提とした中国人述作説も成立しない。したがって、表記説と述作説とを前提とした編修過程論もまた成立しない。図式化すれば、a音韻論→表記説×、b誤用論→述作説×、c表記・述作説→編修論×、です。拙論を批判するならば、この「→」の部分(aでは3つ、bでは1つの論点)を論破し、森説を立てなおせばよいのです。これは私の文章が拙いせいでもありますが、このような論点の整理もせず、随想ふうに問題点を書き立てても決して批判にはならないでしょう(もちろんご自分のブログで何をどう書いても構わないのですが)。前のコメントで「批判というのは並べるものではなく、核心を突くものです」と書いたのはそういう意味です。

 拙論のポイントは、a(1)無気音と有気音を区別できる日本人はいなかったのか、a(2)中国人説の指標とされた非鼻音化の例がβ群にもある、a(3)書紀編者が原史料の濁音を清音に訂正する理由はない(偶然の誤りと見るほかない)、b(1)妻をイモと呼ぶ注一つだけで全体を覆うことはできない、以上の4点であり、その他の論点は補助的なものにすぎません。拙論を批判するなら、この4点を論破すればよいのです。特に拙論で最も失礼な物言いをしたa(2)の「とんでもないインチキ」などは、まず最初に「たしなめられる」べきなのに、石井先生も森先生も何もおっしゃらない。両先生は私が森説の音韻論や誤用論を評価している点に首をかしげておられるようですが、私は音韻論や誤用論、はたまた昨今のデータベースを活用した出典論などの有用性を否定するものではありません。むしろ情報化時代の新しい研究法として大変注目しております。私はただ現状ではそれらを前提にして中国人表記説や述作説を立てることはできないと申し上げているのです。

 上記の4点はどれも特別なものでなく、むしろ常識的な考え方といってよいと思いますが、それだけに論破するのは至難でしょう。実際、無気音と有気音を区別できる日本人がいなかったことを確定するのは不可能です。わずか注一つでα群全体の筆者を特定するのは無理です(暦日の問題なども差しあたり述作者を特定する証拠にはならないでしょう)。また、a(3)の原史料の問題については今回、石井先生がいろいろと補足されていますが、歌謡の原史料を渡来人が書いたとして、そこに誤りがあったなら、それはもう中国人説ではなくて渡来人述作説ですし、音読して校正(校讐?)した可能性なども証明困難です。このようにあやふやな論拠の上に立つ学説を信じることはできません。日本書紀の成立は歴史上の一回的な史実です。想像や可能性を積み上げても史実を確定することはできないばかりか、むしろ偏差が加上されて史実から離れてしまう危険が高いのです。

 但しくり返しになりますが、多種多様な原史料をもとに編纂された書紀に対して、さまざまな角度から分析が進められていることは大変結構なことです。問題はその分析結果を正しく吟味し活用することにあるわけで、今回の拙論が問題にしたのもその一点にあるといってよい。ご高評には「『謎』の音韻論の中核であるα群中国人撰述説」という言い方が出てきますが、私からみれば、これでは話が反対であって、私が言及しなかった問題をあれこれと指摘して、「非難と誤りばかりである」と結論づけられた点もふくめ、どうもご高評は拙論の論題を取り違えておられるように見受けられます。

 このようなわけで、拙論のポイント(→の部分)を論破されない以上、中国人説を前提にしたさまざまな想定についてはコメントする義務はないと考えます。ただ補助的な論点に関して二点だけ。まず、憲法十七条について、拙論で森説を「滑稽」と評した点がお気に障ったようですが、やはり「倭習十七条」というのは如何でしょう。学者にはこういう数合わせを楽しむ方がよくおられますが、少々はしゃぎ過ぎではないでしょうか。また、倭習が数多く指摘された功績はご高評でおっしゃる通りですが、その倭習じたいに推古朝から奈良朝(ここはもちろん元明朝の意味です)に至る年代観のような指標がなく、またβ群の年代も信じがたい以上、ここの誤用論は成立論にもまた思想研究にも資するところがないと判断せざるを得ません(ちなみに憲法に深い思索が見られると言ったのは私見であって、吉川説に依拠したわけではありません)。憲法の成立については別の考えがあり、近く北京で発表する予定ですが、私はある内在的な根拠から、憲法は推古朝のものとみてよいと考えております。

 最後に濁音について。ご指摘の顔師古の例などは私も存じておりますが、おっしゃるように「無声化の時期は声母によって異なっていた」わけですから、森説で指摘された清濁混用例(10例はやはり少ないと思いますが)の一つ一つを検証する必要があるはずです。大島先生が言われた「濁:清の対立は、有声性:無声性にあるのではなく、その示差的特徴は他の要素、例えば声調など、に求め得る可能性も皆無ではないであろう」とは、濁音の枠が維持されたということで(それは「濁音として発音」したという意味ではもちろんありません)、そういう枠の中の細かい変動は一概に把握しがたいわけです。にもかかわらず、無声化は「音韻学の常識」だとして議論を進めるのは、それこそ「汗をかかない」安易なやり方でしょう。この点は実は非鼻音化についても同様です。

 なお、漢音を伝える古写経類の訓注が一般に平安時代に下ることは言うまでもありませんが、『平中物語』第二段に「見つ(見た)」と「水」を掛けた例があり、仮名表記の問題をふくめて、日本側の清濁の問題もそれほど単純ではないと思います。さらに個人的な印象を申せば、誤用論はまず訓点資料のない奈良時代以前の「訓読」の様相に直結する問題であって、文献学への応用はそのあとの課題ではないかと思っております。

 二十代の私が課題とした「実証」とは、もちろん論証がヘタだということですが、過度な実証主義が古代史研究を停滞させている現状にも自分なりに苦しんできました。結果、瀕死の重態となっている古代史のいまを打開する意味で、森先生や大山先生の説は大きな貢献をされたと思います。新しい論証方法を開発し、新しい史実を確定して、その論証の面白さを一般の読者にもわかりやすく伝えること。そうであったかもしれないし、そうでなかったかもしれない、では「実証」とは言いません。出土資料などはともかく、資料が出揃っている古代史では何よりその組み立て方が大事なのです。これは「挑戦」などではありません。私は森説を分解し、その組み立てがおかしいと申し立てたにすぎないのです。

追伸 森先生、以上の説明で「反論の責任」がそちらにあることがおわかりいただけたと思います。この場合の反論とは、ご高説の組み直しです。もっとも私は先生に「責任」があるとは思いませんし、そもそもブログのような場所の議論で何かの「責任」が生じるとも思いませんが、ともあれまさかこのような説明をすることになるとは思っておりませんでした。以後、拙論の題意を無視したご発言には一切、対応するつもりはありません。

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