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森博達『日本書紀の謎を解く』への激しい批判: 井上亘「『日本書紀』の謎はとけたか」(3)

2011年08月09日 | 論文・研究書紹介
 これまで、音韻論そのもの以外の点に関して、井上氏によるα群中国人述作説批判を見てきました。今回は『謎』の誤用・奇用論に対する井上氏の批判を検討します。

 『謎』は、漢文の誤用・奇用、つまり倭習の用例はβ群に多く見られることを示し、α群β群説を補強しました。誤用というのは、「在」と「有」が日本ではともに「あり」と訓まれるところから、「在倭国」と書くべきところを「有倭国」と書くような間違いです。これに対して、森氏が区別する「奇用」は、中国文献中に存在している表現ではあるものの、用例が少なく一般的でないのに対し、古代朝鮮の金石文や『書紀』のβ群など日本文献にはよく用いられるものです。「密来之(ひそかにきたりて)」のように、「之」を「~して」の「て」の意味で使う中止法や、「之」を「也」よりは軽い感じで文が終わることを示すために使う終止法がその代表ですね。

 α群にも誤用や奇用は少し見られますが、『謎』はそうした例については「異例」とし、書名をあげて百済系史料を引用した箇所であったり、天皇の詔勅であったりするなど、何かしら理由があってそのままにしてあることを明らかにしています。

 井上氏は『謎』の誤用・奇用論について、「私は専門的な立場から論評する資格をもたないが、なるほど確かにこれは『倭習』だと納得する点が多い」と評価します。しかし、その少し後で「肝心の「奇用」と「異例」の説明は成功しているとは言えないと思う」(97頁)と述べ、例によって否定的な方向に話を持って行ってしまいます。井上氏はα群中国人述作説を批判するためもあってのことと思われますが、α群における「奇用」とされている例の多くは実際には「誤用」だろうと述べ、代表例として接続詞「所以」をあげています(97-8頁)。しかし、これは『謎』をきちんと読んだうえでの批判ではありません。

 『謎』は、文語の漢文の中で「所以」という語を、「~する所以」という本来の用法でなく、現代中国語と同様に「~。所以(ゆえ)に~」という接続詞として用いるのは「奇用」だとし、そうした用例は『書紀』ではβ群に6例、α群に8例見られるとします。β群は「憲法十七条」の1例以外はすべて地の文で用いられているのに対し、α群の8例は、4例が詔勅であって、残り4例のうち3例は会話文に用いられている由(154頁)。α群では詔勅については誤用・奇用が有っても改めずにそのまま引く傾向が見られることについては、上で見たように、『謎』は指摘していました。
 
 『謎』では、その「所以」の奇用について、太田辰夫『中国語歴史文法』や牛島徳次『漢語文法論(中古篇)』が、『史記』『魏志』『世説新語』『後漢書』『南斉書』などの例をあげ、結果を表す接続詞として用いている例も少数あり、その大半は会話文に用いられていて白話(口語)語彙と推測されると説明していることを紹介します。そのうえで、『謎』は、α群に「所以」の奇用が見られるのは、口語なら誤用でないと知っていたから原史料をそのままにしたと考えられるとしています(152~155頁)。

 ところが、井上氏は、α群の作者が「そういう古い特殊な用例を知っていたとするならば、これは大変な学者ということになり、……にわかには信じがたい」ため、奇用というのは、たまたま古典にも用例があるというだけの誤用だろうと論じます(97-98頁)。しかし、『謎』は、α群作者がそれらの諸文献に精通していて特殊な用例まで把握していたなどとは言っておらず、「白話なら誤用でないと知っていた」(154-5頁)と述べているだけです。

 『史記』『魏志』『世説新語』『後漢書』『南斉書』などは有名でよく読まれた文献ばかりですので、そのうち1部ないし2部のうちの用例を覚えていれば十分です。というより、権威ある文献における用例を知らなかったとしても、「所以」を口語調の文章中で接続詞として用いることは、六朝末から唐代にかけて広まっていったのですから、「大変な学者」でなくても、唐代の中国人であればそうした用法は誰でも知っていたはずです。

 仏教でも、経典の注釈は講義と問答の筆録に基づいて書かれることが多く、口語表現がしばしば残されるため、六朝末から唐代にかけての注釈や人々に語りかける授戒マニュアルなどには、時々この「所以」の用例が見られますし、禅語録などになれば会話調の問答ですのでどっさり出てきます。また、奇用とされるものの中には、中国上代の語法が朝鮮半島に伝えられ、中国ではあまり使われなくなってから日本に入ってきたものもあることが知られています。

 『謎』の誤用・奇用論にはもちろん不十分な点もあり、その一つは仏教漢文の用例の調査が足りないことでしょう。たとえば、『謎』が誤用とする「因以」(152頁)は仏教漢文にはしばしば見られるものです。他にもいくつか同様の例があり、このことは森氏にお知らせしてあります。一方、井上氏の批判は、『書紀』に関する新たな事実を発見して森説を訂正したものはないですね。

 なお、誤用・奇用とされたものが実際には仏教漢文の語法であるらしいことに私が気づいた諸例は、β群は訓読に基づいた和風漢文であって仏教漢文の影響が見られるという森説を補強するものばかりです。大事なのは、研究のため、『日本書紀』解明のために『謎』の方法をどれだけ活用できるか、ということでしょう。私自身、仏教文献の変格語法を研究するうえで、『謎』や他の森氏の著作が役立った場合がたくさんありました。

 さらに問題なのは、「異例」の処理に関する井上氏の批判です。井上氏は、『謎』がα群β群の区分を説いておりながら、例外があると「後人の加筆」だと説明するのは「やはり禁じ手というべき」(98頁)だとし、「後人の加筆」を言い出せば、何でも説明できてしまうと批判しています。これは、一般論としてはその通りです。

 確かに、正当な理由無しで「後人の加筆」説を乱発するのは論外ですし、『謎』が「後人の加筆」の例としている例の中には、適切でないものが少数ながら混じっている可能性もあります。しかし、『謎』の特徴は、「後人の加筆」かどうか判断するにあたって、漢字表記の違いや誤用・奇用の量と傾向といった判断基準を持っていることです。

 これまで森氏以前から、それぞれの立場に基づいて様々な区分論を説いてきた研究者たちが例外箇所をうまく説明できなかったのに対して、『謎』がそれを大幅に改善したことも事実です。これまでの状況を改めるきっかけを作ったのは、『書紀』は原稿がある程度完成してから、誰かが類書(中国風な項目分類に基づいた、用例による百科事典)や少数の中国古典を活用し、区分とは無関係に各巻の草稿を潤色して立派な文章としようとしたことを明らかにした小島憲之の画期的研究でした。

 その小島説を語法面からさらに進めた『謎』は、(1)百済史料などを名をあげて引用している箇所中の例、(2)後人が中国古典によって潤色した際の誤り、(3)直接の引用という形でなく原史料を引いて誤りも引き継いだ例、をあげ、それ以外の後人の加筆の例も認めています。

 興味深いことに、『謎』が語法面から加筆と見ている箇所は、文献史学者たちが内容面から見て疑わしいとして記事の真偽を問題にし、論議してきた箇所と重なる場合が多いのです。これは『謎』の方法の有効さを示すものであり、『日本書紀』成立の事情を明かにするうえでも大きな示唆を与えるものと言えるでしょう。

 区分論については、他にも漢文学者・国語学者など、文献史学者以外の研究者の活躍が目立ちます。小島にしても、画期的な業績をあげた和漢比較文学者であって、文献史学者ではありません。文献史学としては、こうした他分野の研究者たちの主張のうち、史学から見て弱い部分を批判するのではなく、積極的に協同して研究をさらに進展させ、成果を出していくべきなのです。

 『謎』の「加筆」説は、区分論の例外に関して新たな情報と判定方法を提示したにもかかわらず、井上論文が、「後人の加筆」で説明するのは恣意的すぎると一般論で批判するだけなのは、裏を返せば、井上氏が語彙・語法・書記法などの違いにあまり注意せずに『書紀』を読んできたことを示すもののように思われます。

 同じ日本史学者でも、渡辺滋氏などは、遠藤慶太氏の「古代国家と史書の成立--東アジアと『日本書紀』--」と題する発表(後に『日本史研究』571号、2010年3月に掲載。質疑応答も含め、きわめて有益)に対して書いた「【共同研究報告】遠藤報告を聞いて」(『日本史研究』572号、2010年4月)において、『日本書紀』の本文分析に当たっては言語学の研究成果を活用すべきだと論じています。

 そして、森氏の一連の研究成果を例にあげてその有効性を説いたうえで、百済史料である『百済記』では5例の「之」の用例のうち、朝鮮漢文によく見られる文末の「之」を3度も用いているのに対し、『百済本紀』では18例のうち文末の「之」の用例は皆無であることを指摘しています。百済三書としてまとめて扱われがちであった『百済記』『百済本紀』『百済新撰』について、区別して見る必要があることを明らかにしたことは重要です。

 渡辺氏は、前回の記事で触れたように、森説のうち「述作者」に関する主張には賛成していないと明言していました。その点は、井上氏と同じです。ただ、渡辺氏の場合は、森氏の研究法の有効性を認めて積極的に活用すべきことを強調し、実際に『謎』の方法に基づいて上記のように新たな発見をしているのです。これは、平安時代を専門とする史学者である渡辺氏が、これまで言語面に注意した研究をし、そうした論文を書いてきたからこそ可能となったことでしょう。

 百済三書が『日本書紀』の原史料としていかに重要かは、津田以来、何人もの研究者が強調してきました。井上氏自身、著書の『日本古代朝政の研究』(吉川弘文館、1998年)では、「百済本紀など原史料の推測可能な記事から、併用する旧辞的記事を対象化して史料の妥当性を確保しつつ、これら全体から政務の子細を帰納するよう心がけた」(84頁・注3)と述べている通りです。

 しかし、「記紀で研究する前に、記紀を研究しなければならぬ」と提唱して自ら実践した、と森氏が高く評価する坂本太郎の研究、またこのブログの前回の記事で触れた木下礼仁氏の研究などにより、『書紀』には百済三書に基づくことを明記しないまま、注や本文で百済史料を用いている箇所もあることが知られています。

 となれば、そうした箇所や古風で特異な表現で書かれていたであろう「旧辞的な記事」を析出し、『書紀』の成立について考えるためにこそ、『謎』の音韻論や誤用論のような視点による調査が有効ということになるはずです。井上氏は、どうしてそのような具体的な活用法を提示する方向に向かわないのでしょう。

 『謎』が、津田左右吉と違って倭習などに注意しない文献史学者に疑問を呈したのは、『万葉集』研究を大幅に進展させた契沖も、『古事記』研究を画期的に発展させた宣長も、「言葉」を重んじてその研究を基礎とする国学者であったからです。私も、『伊勢物語』や『源氏物語』など国文学関係の論文を何本か書くうちに、契沖の偉大さを改めて痛感するようになり、ある論文では、「仏教の影響に注意しない国文学者は契沖という原点に帰れ」と主張したことがあります。言葉を無視して古典の研究はできません。

 井上氏が語法などの面にあまり注意しないことは、β群中に正格漢文が見られる箇所や、α群中で誤用・奇用が目立つ箇所について論じた部分からも知られます。β群であっても、元にした史料が正格漢文やそれに近い漢文で書かれていれば、その部分は倭習が無い、あるいは倭習が少ない文章になるのは当然ですが、井上氏はそうした見方をとらず、またしても批判ばかり展開します。

 『謎』は、β群に属していて倭習が目立つ神代紀のうち、一書としてあげられる文と綏靖紀は倭習が無いことに注目します。そして、綏靖紀では末尾で多氏の始祖について語っているため、綏靖紀は多氏が提出した始祖伝承の記録を転載したものである可能性があり、『古事記』序で「倭習の少ない立派な漢文」を書いた多氏の族長である「太安万侶が著した」かもしれないと推測します。これに対して井上氏は、それなら中国人以外でも正格漢文が書けたことになり、α群とβ群は共通点を持つことになるため、「森説には不利な指摘であるはずだ」(101頁)と論じるのです。

 しかし、『謎』は「異例の存在はまことに貴重である。……例外の存在を直視すれば、いっそう理解が深まる」(157頁)と明言し、例外に正面から取り組むことを目的としていました。また、『謎』は安万侶の『古事記』序については「倭習が少ない」と書いているのであって、「倭習が無い」とは言ってません。

 実際、『古事記』序について言えば、全体としては美文であるものの、「更非注」のような誤用も見られます。これは「まったく注をつけなかった」の意でしょうから、名詞句を否定する「非」でなく、動詞の「注」を否定する否定詞をつけなければいけない箇所であって、『謎』がβ群に多いとする否定詞の誤用です。僅かながら倭習はあるのです。

 ただ、『古事記』序も、綏靖紀も神代記の問題の一書も、先に見た「之」の中止法をしきりに用いているほか様々な倭習が目立つβ群とは、文体がまったく異なっており、区別する必要があります。

 史学で論争がおこなわれてきた孝徳紀の詔勅、つまり、いわゆる大化の改新の詔勅については、中国人が述作したα群でありながら倭習が非常に集中して登場することから、『謎』は「後人の加筆」と見ます。井上論文はこれを、詔勅を「準引用文」と見てきた方針に反しており、「潤色」という条件も外してしまった恣意的すぎる認定だとして、「あまりにも粗雑である」(105頁)と批判しています。

 しかし、大化の詔勅と、α群の他の天皇たちの詔勅の文体の違いを、井上氏はどう考えるのでしょう。誤用の多さは気にならないのでしょうか。井上氏は、誤用の多少によって区分する『謎』の分析について、「本文の性格を見るために文法という客観的な基準を持ち出したのは、科学的な方法と言える」(96頁)と評価していたはずです。例外処理の場合分けに関する説明が不十分だ、という点ばかり言い立てるのは理解できません。孝徳紀の詔勅に倭習が目立つのは、宣命調であった原文を漢文に直した際に生じたものであって、内容は史実として認めて良いのだ、などとするのであれば、そうした論証が必要でしょう。

 また、井上氏は、「憲法十七条」について『謎』がβ群と共通する倭習の多さを指摘し、β群の述作年代に近い頃の僞作としたことについても、激しく批判しています。それも、天才の作である点を無視して誤りばかり問題にするのは「滑稽でさえある」(102頁)といった調子でなじるのです。

 こうした非難ぶりは、井上氏のこれまでの著書では、真偽論争の盛んな「憲法十七条」と大化の詔勅とを、当時の状況を伝える史料として用い、様々な考察をしていたことと関係あるのでしょうか。私はかつて、「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」という講演をし、雑誌に掲載したことがありますが、井上論文の「熱さ」はかなりのものです。

(井上さん、最終回である次回でようやく森氏の「憲法十七条」論に対する井上さんの批判に触れますが、森さんの再反論や私のこの連載記事に対して、森さんの最初の投稿のようにコメント欄におさまらないような長いご意見を書かれる場合は、本文記事として掲載しますので、コメント欄にメールのアドレスを記してご連絡ください)