大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』所載の個別論文紹介第6弾は、森博達『日本書紀の謎を解く--述作者は誰か--』(中公新書、1999年。以下、『謎』と略記)を激しく批判し、森博達氏とこのブログでコメントの応酬をされている井上亘氏の注目論文です。
この井上論文について論じるには、『謎』を書評する際に必要だと井上氏が説く「音韻学と文献史学」の知識が必須でしょう。しかし、私は、津田左右吉の弟子や孫弟子の先生たちが多くを占める研究室で学んだものの、老荘や仏教や近代儒教など思想研究の授業ばかりで、史学の訓練は受けていません。
また、新羅・高麗や日本の仏教漢文の変格語法については、院生時代から調べてきたため、「憲法十七条」を含む『書紀』の倭習には関心があるうえ、恩師の平川彰先生が編集された『仏教漢梵大辞典』のお手伝いを10年ほどやり、音義類を含む大正大蔵経の電子化と公開の作業にも10年ほど携わる中で、「この梵語を、なぜこんな漢字で音写するんだ?」と疑問に思うことが多く、梵語音写と漢字音に関する論文を多少読むようになった結果、ベトナム特有の文字である字喃(チュノム)は唐代の陀羅尼音写用漢字の影響を受けていることに気づき、「ベトナム語の字喃(chu nom)と梵語音写用漢字」(1998年)という雑な論文を書いたりしましたが(後にベトナム社会科学院・漢喃研究センターの雑誌に訳出掲載され、今日まで続くベトナムとの縁ができました)、音韻学に関してまとまった勉強はしていません。
というわけで、資格不十分であるため、肝心な音韻論そのものに関する細かい議論は専門家にお任せすることとし、それ以外の点について井上氏の論文を見てゆきます。
井上論文は冒頭で、『謎』が文献史学に疑問を呈した箇所を引きます。つまり、津田左右吉の時代と違い、戦後は神話や天皇制研究に関するタブーが無くなったうえ、隣接諸学が発達したため、『書紀』研究は総合的な学問となったが、その中核となるべき文献史学は「記事内容の整合性と矛盾を追うだけ」の状態から進んでいないため、「文献史学は学問の総合化という華やかな旗の下、独自の存立基盤を喪失したのではないか」と述べた箇所です。
井上氏は、これは「明白な文献史学に対する挑戦」であり、文献史学者は怒るべきだと力説します。それにもかかわらず、怒るどころか森説に迎合する人も多いらしいのは、森説を批判するには「音韻学と文献史学の双方にわたる知識」が必要なのに、そうした書評がなかったからだろうと推測します。
一方、文献史学出身の自分は中国の音韻学について触れた書物も出版しており、「上記の条件を一応、満たしている」ため、「森説のどこまでが有効で、一体どこに限界があるのか話してほしいと依頼され」て行なった報告がこの文章である由(72頁)。末尾では「森説批判を依頼された」(112頁)とも書いています。注2によれば、2009年12月に東京での研究会で報告し、今回の論文はそれを増補したものとのことです。
井上論文はこれに続けて音韻学のうちで議論に必要な部分の説明をした後、まさに怒りに満ちた激しい言葉を用いて批判や皮肉をあびせかけていきます。しかし、『謎』は、文献史学の代表者の一人である津田左右吉については、合理主義に基づき『書紀』における記事の整合性を検討して「帝紀」「旧辞」を析出し、編纂の意図を探り、「東洋史学・考古学・人類学・民俗学・神話学等の知見を援用し、記事の虚実を判定した」(26頁)と述べて高く評価していました。
また、津田が『書紀』の倭習に着目し、原史料が反映した例と編者の筆癖が露出した例を指摘したことについて、『謎』は「見事に本質を衝いている」(129頁)と賞賛しています。もちろん、津田は簡単に指摘しただけであって、それ以上の詳細な検討は行なっていませんが、戦前の段階でそうした面まで注意していたのは、さすがです。
つまり、『謎』が実質的に批判しているのは、文献史学そのものというよりは、『書紀』の成立に関する研究を画期的に進めた津田の研究法をさらに発展させようとせず、「記事内容の整合性と矛盾を追うだけ」にとどまっていて、『書紀』の成立過程を明らかにしようとしない文献史学者たちのことであるように見えます。
実際には、『書紀』研究という点では、考古学・東洋史・文学・国語学その他の隣接諸学の成果を活用する文献史学者によって多くの業績が生み出されています。ただ、森氏としては、『古代の音韻と日本書紀の成立』(1991年)において、中国人が述作し一貫して唐代北方音で発音を表記したα群と、複数の字音体系に基づく仮名が混在していて日本人が倭音で書いたと思われるβ群の違いを指摘し、『書紀』成立論のための基礎となる視点を提示したにもかかわらず、そうした分析を文献史学者が活用して史料批判を進展させ、『書紀』の成立過程を解明しようとしないのは責任放棄であり、文献史学の存在意義を失わせるものだと思われたのでしょう。
これに対して、井上氏は、『謎』のうち「音韻論」と「成立論」とをはっきり分け、前者については「大変な労作」(81頁)、「未曽有の業績」(109頁)と呼んで高く評価する一方、述作者や成立過程を論じた後者については粗雑きわまりない素人論義として切り捨てます。
井上氏は、文献史学者が「述作者は誰か」という問題に取り組んで来なかったのは、舎人親王を総裁とし、紀清人と三宅麻呂が従事して720年に完成したことが明白である以上、「編修段階の子細を論ずるよりも、……記紀からどうやって史実を引き出すかに関心が集中していたからにほかならない。……歴史家としては、まず史実の確定を急務とするのは当然のことであり、だからこそ帝紀・旧辞や氏族伝承などの原史料を探求してきたのである」とし、森氏の「編修論」はそうした歴史家の仕事に「殆ど貢献するところがないのであり、『書紀』の成立論としてもまことにお粗末なもの」と評しています(110頁)。
しかし、これは不思議な議論です。まず奇妙なのは、井上論文は『謎』の音韻論を「未曽有の業績」とまで賞賛しておりながら、その音韻論の根本であるα群中国人述作説は成り立たないと断定し、森説がいかに粗雑で「インチキ」であるかをひたすら述べ立てていくことです。また、「帝紀・旧辞や氏族伝承などの原史料を探求して」史実を引き出したいのであれば、まさに『謎』が非常に有効な情報と方法を提供しているのに、井上論文は「成立論」の欠点を言い立てるばかりで、森説活用の可能性に目を向けないのも解せません。
『謎』の特徴の一つは、早くにおこなっていたα群β群の指摘に加え、正格漢文で書かれているか、日本文献や百済系文献特有の誤用・奇用を交えた変格漢文で書かれているかという区分も、α群β群の区分と見事に一致することを指摘し、例外箇所についても百済系文献の引用であることによるなどの理由を示したことです。ところが、井上氏は、その誤用論についても、「本文の性格を見るために文法という客観的な基準を持ち出したのは、科学的な方法と言える」(96頁)と高く評価しておりながら、活用の可能性には触れず、誤用と奇用に関する説明の仕方が悪いといった方向に話をもっていってしまうのです。
しかし、孝徳紀は正格漢文で書かれたα群に属するものの、その時期の詔勅には誤用が目立つため、日本人編纂者による最終段階での加筆が疑われるといった指摘などは、まさにそれらの詔勅の真偽をめぐって大論争している文献史学にとって、客観的で重要な情報であるはずです。『謎』は他にも厩戸皇子や山背大兄王関連記事などの誤用の多さを指摘していますが、これも後代の潤色が指摘されている箇所です。こうした例は、他にいくつも見られます。音韻や誤用に関する森氏の分析を評価するなら、音韻学者の森氏には思いつかない、文献史学者ならではの活用法を提示してこそ建設的な批判となるのではないでしょうか。
ところが、井上論文では、『謎』における森説の活用の可能性については、末尾で僅かに触れているのみであり、しかも、その提案は疑問に思われる内容となっているのです。これについては後述します。
さて、井上氏のα群中国人述作説批判は、音韻学者で当時は東大助教授であった平山久雄氏がおこなった森説批判に基づき、拡張したものです。井上氏は、
(1)森氏のα群原音依拠説(もとになった論文は1974~77年)、
(2)倭音説でも説明可能とする平山氏の批判(『国語学』128集、1982年)、
(3)森氏の反論(『国語学』131集、1982年)、
(4)平山氏の再反論と原音依拠説を仮に認めた折衷案の提示(『国語学』134集、1983年)、
(5)森『古代の音韻と日本書紀の成立』(1991年)での平山評(折衷案はα群説承認なので、これ以上の議論は不要)、
という論争の流れを紹介して平山氏の批判を正しいものと評価し、森氏のα群中国人述作説は成り立たないと断定します。
そして、平山氏がα群中国音説を仮に認めた折衷案も提示したことを「大人の対応」と評価したうえで、「森は恩師に『人はその美を見なさい』と教えられたそうだが(『謎を解く』七九頁)、この論争を見る限り、森は平山の意図さえ見えていないように思われる」(85頁)と批判するのです。
井上氏は、上で見た85頁の文章に続けて、「私はこの論争について専門的な立場から論評する資格もないし、国語学者がこの論争をどう見ているのかも知らない」(85~86頁)と述べた後、批判を展開していきます。しかし、これが謙遜の言葉でないなら、氏は中国語の音韻学に触れた本を出しているものの、上代日本語の音韻については「専門的な立場から論評する」だけの知識がなく、この問題に関する適切な判断は無理、ということになってしまいます。
それはともかく、「国語学者がこの論争をどう見ているのかも知らない」というのは、問題発言と言わざるを得ません。北京大勤務の井上氏にとって、森説に言及している多くの論文を網羅するのは困難であるにせよ、元の報告は帰国して東京で発表したわけですし、報告から原稿提出まで1年近くあったと思われますので、国語学の代表的な学術誌に掲載されたいくつかの書評や関連論文を読むくらいはできたはずです。
そこで、井上氏に代わって、α群中国音説に対する二人の著名な国語学者の見解を紹介しておきましょう。いずれも平山氏と森氏の論争以後のものです。
まず、日本語音韻の研究者である筑波大教授、林史典氏の「【書評】森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』」(『国語学』188集、1997年3月)は、本書はもっと評価されるべきであるとし、α群説については、細かい点では主観に頼らざるを得ない解釈も含まれているが、「全く結論を疑わせるものではない」とします。そして、
「α群の発見は、日本語と中国語の音韻史に大きな可能性を開くものであるばかりでなく、日本語の書記史にも少なからぬ意味を持っている」(31頁上)
と述べます。
林氏は、仮名から推定した部分については議論の余地があり、説明不足の点もあるといった指摘を含む詳細な検討をおこなったうえで、結論部においても、「最大の功績は、何と言ってもα群の発見であろう」と繰り返し述べ、「一連の研究成果が提起した問題は多く、著者の方法が示唆するものも大きい」(35頁下)と評価しています。
この書評が掲載された『国語学』誌は、井上氏が紹介した(2)から(4)までの論文が掲載された学術誌です。森氏の諸論文のうち、平山氏の批判のきっかけとなった「漢字音より観た上代日本語の音韻組織」も同誌の126集(1981年)に掲載されています。井上氏は読めたはずです。
次は、京大の国語学の助教授であった木田章義氏の書評「森博達著『古代の音韻と日本書紀の成立』(『国語と国文学』824号、1992年8月)です。木田氏は、唐代音に関する研究が大きく変わらない限り、α群中国音説はゆるがないとしたうえで、こう述べます。
「曽て平山久雄氏に反論があったが、α群とβ群の仮名に共通した物があるという事は音韻とは別の次元で考えるべき事で、α群の仮名が当時の中国語音の体系で説明できるという事実には関わらない。平山氏が錯覚もしくは誤解されたのであろうから、再反論を本書に入れる必要はないだろう」(64頁上)
すなわち、平山氏の批判は勘違いなのだから、森氏の反論を増補した詳しい反論論文などを書いてこの本に収録する必要はない、とするのです。取り上げる必要無し、という判断ですね。
ちなみに、平山氏の森説批判は、森氏が韻母に関する論文を発表しただけで、「頭音論」と「アクセント論」をまだ完成していなかった時期のものです。このアクセント論は、高山倫明氏のアクセント研究に示唆されて行なった分析に基づいていますが、高山氏は、高山「字音声調と日本語のアクセント」(『国語学』54巻3号、2003年。CiNiiで閲覧可能)が示すように、以後は森氏のα群説を活用して上代日本語のアクセントに関する業績をあげていってます。
なお、43歳の若さで世を去り、遺稿集の『上代音韻攷』で有名な有坂秀世(1908~1952)のことを、井上氏は「天才的な音韻学者」(82頁)と呼んで高く評価し、その有坂の説を克服したと称する森説は、平山氏の批判が示すように成り立たないと論じていますが、木田氏の書評の結論はこう書かれています。
「『上代音韻攷』以来、ようやくこの方面の研究が大幅に進んだ」(67頁下)
この井上論文について論じるには、『謎』を書評する際に必要だと井上氏が説く「音韻学と文献史学」の知識が必須でしょう。しかし、私は、津田左右吉の弟子や孫弟子の先生たちが多くを占める研究室で学んだものの、老荘や仏教や近代儒教など思想研究の授業ばかりで、史学の訓練は受けていません。
また、新羅・高麗や日本の仏教漢文の変格語法については、院生時代から調べてきたため、「憲法十七条」を含む『書紀』の倭習には関心があるうえ、恩師の平川彰先生が編集された『仏教漢梵大辞典』のお手伝いを10年ほどやり、音義類を含む大正大蔵経の電子化と公開の作業にも10年ほど携わる中で、「この梵語を、なぜこんな漢字で音写するんだ?」と疑問に思うことが多く、梵語音写と漢字音に関する論文を多少読むようになった結果、ベトナム特有の文字である字喃(チュノム)は唐代の陀羅尼音写用漢字の影響を受けていることに気づき、「ベトナム語の字喃(chu nom)と梵語音写用漢字」(1998年)という雑な論文を書いたりしましたが(後にベトナム社会科学院・漢喃研究センターの雑誌に訳出掲載され、今日まで続くベトナムとの縁ができました)、音韻学に関してまとまった勉強はしていません。
というわけで、資格不十分であるため、肝心な音韻論そのものに関する細かい議論は専門家にお任せすることとし、それ以外の点について井上氏の論文を見てゆきます。
井上論文は冒頭で、『謎』が文献史学に疑問を呈した箇所を引きます。つまり、津田左右吉の時代と違い、戦後は神話や天皇制研究に関するタブーが無くなったうえ、隣接諸学が発達したため、『書紀』研究は総合的な学問となったが、その中核となるべき文献史学は「記事内容の整合性と矛盾を追うだけ」の状態から進んでいないため、「文献史学は学問の総合化という華やかな旗の下、独自の存立基盤を喪失したのではないか」と述べた箇所です。
井上氏は、これは「明白な文献史学に対する挑戦」であり、文献史学者は怒るべきだと力説します。それにもかかわらず、怒るどころか森説に迎合する人も多いらしいのは、森説を批判するには「音韻学と文献史学の双方にわたる知識」が必要なのに、そうした書評がなかったからだろうと推測します。
一方、文献史学出身の自分は中国の音韻学について触れた書物も出版しており、「上記の条件を一応、満たしている」ため、「森説のどこまでが有効で、一体どこに限界があるのか話してほしいと依頼され」て行なった報告がこの文章である由(72頁)。末尾では「森説批判を依頼された」(112頁)とも書いています。注2によれば、2009年12月に東京での研究会で報告し、今回の論文はそれを増補したものとのことです。
井上論文はこれに続けて音韻学のうちで議論に必要な部分の説明をした後、まさに怒りに満ちた激しい言葉を用いて批判や皮肉をあびせかけていきます。しかし、『謎』は、文献史学の代表者の一人である津田左右吉については、合理主義に基づき『書紀』における記事の整合性を検討して「帝紀」「旧辞」を析出し、編纂の意図を探り、「東洋史学・考古学・人類学・民俗学・神話学等の知見を援用し、記事の虚実を判定した」(26頁)と述べて高く評価していました。
また、津田が『書紀』の倭習に着目し、原史料が反映した例と編者の筆癖が露出した例を指摘したことについて、『謎』は「見事に本質を衝いている」(129頁)と賞賛しています。もちろん、津田は簡単に指摘しただけであって、それ以上の詳細な検討は行なっていませんが、戦前の段階でそうした面まで注意していたのは、さすがです。
つまり、『謎』が実質的に批判しているのは、文献史学そのものというよりは、『書紀』の成立に関する研究を画期的に進めた津田の研究法をさらに発展させようとせず、「記事内容の整合性と矛盾を追うだけ」にとどまっていて、『書紀』の成立過程を明らかにしようとしない文献史学者たちのことであるように見えます。
実際には、『書紀』研究という点では、考古学・東洋史・文学・国語学その他の隣接諸学の成果を活用する文献史学者によって多くの業績が生み出されています。ただ、森氏としては、『古代の音韻と日本書紀の成立』(1991年)において、中国人が述作し一貫して唐代北方音で発音を表記したα群と、複数の字音体系に基づく仮名が混在していて日本人が倭音で書いたと思われるβ群の違いを指摘し、『書紀』成立論のための基礎となる視点を提示したにもかかわらず、そうした分析を文献史学者が活用して史料批判を進展させ、『書紀』の成立過程を解明しようとしないのは責任放棄であり、文献史学の存在意義を失わせるものだと思われたのでしょう。
これに対して、井上氏は、『謎』のうち「音韻論」と「成立論」とをはっきり分け、前者については「大変な労作」(81頁)、「未曽有の業績」(109頁)と呼んで高く評価する一方、述作者や成立過程を論じた後者については粗雑きわまりない素人論義として切り捨てます。
井上氏は、文献史学者が「述作者は誰か」という問題に取り組んで来なかったのは、舎人親王を総裁とし、紀清人と三宅麻呂が従事して720年に完成したことが明白である以上、「編修段階の子細を論ずるよりも、……記紀からどうやって史実を引き出すかに関心が集中していたからにほかならない。……歴史家としては、まず史実の確定を急務とするのは当然のことであり、だからこそ帝紀・旧辞や氏族伝承などの原史料を探求してきたのである」とし、森氏の「編修論」はそうした歴史家の仕事に「殆ど貢献するところがないのであり、『書紀』の成立論としてもまことにお粗末なもの」と評しています(110頁)。
しかし、これは不思議な議論です。まず奇妙なのは、井上論文は『謎』の音韻論を「未曽有の業績」とまで賞賛しておりながら、その音韻論の根本であるα群中国人述作説は成り立たないと断定し、森説がいかに粗雑で「インチキ」であるかをひたすら述べ立てていくことです。また、「帝紀・旧辞や氏族伝承などの原史料を探求して」史実を引き出したいのであれば、まさに『謎』が非常に有効な情報と方法を提供しているのに、井上論文は「成立論」の欠点を言い立てるばかりで、森説活用の可能性に目を向けないのも解せません。
『謎』の特徴の一つは、早くにおこなっていたα群β群の指摘に加え、正格漢文で書かれているか、日本文献や百済系文献特有の誤用・奇用を交えた変格漢文で書かれているかという区分も、α群β群の区分と見事に一致することを指摘し、例外箇所についても百済系文献の引用であることによるなどの理由を示したことです。ところが、井上氏は、その誤用論についても、「本文の性格を見るために文法という客観的な基準を持ち出したのは、科学的な方法と言える」(96頁)と高く評価しておりながら、活用の可能性には触れず、誤用と奇用に関する説明の仕方が悪いといった方向に話をもっていってしまうのです。
しかし、孝徳紀は正格漢文で書かれたα群に属するものの、その時期の詔勅には誤用が目立つため、日本人編纂者による最終段階での加筆が疑われるといった指摘などは、まさにそれらの詔勅の真偽をめぐって大論争している文献史学にとって、客観的で重要な情報であるはずです。『謎』は他にも厩戸皇子や山背大兄王関連記事などの誤用の多さを指摘していますが、これも後代の潤色が指摘されている箇所です。こうした例は、他にいくつも見られます。音韻や誤用に関する森氏の分析を評価するなら、音韻学者の森氏には思いつかない、文献史学者ならではの活用法を提示してこそ建設的な批判となるのではないでしょうか。
ところが、井上論文では、『謎』における森説の活用の可能性については、末尾で僅かに触れているのみであり、しかも、その提案は疑問に思われる内容となっているのです。これについては後述します。
さて、井上氏のα群中国人述作説批判は、音韻学者で当時は東大助教授であった平山久雄氏がおこなった森説批判に基づき、拡張したものです。井上氏は、
(1)森氏のα群原音依拠説(もとになった論文は1974~77年)、
(2)倭音説でも説明可能とする平山氏の批判(『国語学』128集、1982年)、
(3)森氏の反論(『国語学』131集、1982年)、
(4)平山氏の再反論と原音依拠説を仮に認めた折衷案の提示(『国語学』134集、1983年)、
(5)森『古代の音韻と日本書紀の成立』(1991年)での平山評(折衷案はα群説承認なので、これ以上の議論は不要)、
という論争の流れを紹介して平山氏の批判を正しいものと評価し、森氏のα群中国人述作説は成り立たないと断定します。
そして、平山氏がα群中国音説を仮に認めた折衷案も提示したことを「大人の対応」と評価したうえで、「森は恩師に『人はその美を見なさい』と教えられたそうだが(『謎を解く』七九頁)、この論争を見る限り、森は平山の意図さえ見えていないように思われる」(85頁)と批判するのです。
井上氏は、上で見た85頁の文章に続けて、「私はこの論争について専門的な立場から論評する資格もないし、国語学者がこの論争をどう見ているのかも知らない」(85~86頁)と述べた後、批判を展開していきます。しかし、これが謙遜の言葉でないなら、氏は中国語の音韻学に触れた本を出しているものの、上代日本語の音韻については「専門的な立場から論評する」だけの知識がなく、この問題に関する適切な判断は無理、ということになってしまいます。
それはともかく、「国語学者がこの論争をどう見ているのかも知らない」というのは、問題発言と言わざるを得ません。北京大勤務の井上氏にとって、森説に言及している多くの論文を網羅するのは困難であるにせよ、元の報告は帰国して東京で発表したわけですし、報告から原稿提出まで1年近くあったと思われますので、国語学の代表的な学術誌に掲載されたいくつかの書評や関連論文を読むくらいはできたはずです。
そこで、井上氏に代わって、α群中国音説に対する二人の著名な国語学者の見解を紹介しておきましょう。いずれも平山氏と森氏の論争以後のものです。
まず、日本語音韻の研究者である筑波大教授、林史典氏の「【書評】森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』」(『国語学』188集、1997年3月)は、本書はもっと評価されるべきであるとし、α群説については、細かい点では主観に頼らざるを得ない解釈も含まれているが、「全く結論を疑わせるものではない」とします。そして、
「α群の発見は、日本語と中国語の音韻史に大きな可能性を開くものであるばかりでなく、日本語の書記史にも少なからぬ意味を持っている」(31頁上)
と述べます。
林氏は、仮名から推定した部分については議論の余地があり、説明不足の点もあるといった指摘を含む詳細な検討をおこなったうえで、結論部においても、「最大の功績は、何と言ってもα群の発見であろう」と繰り返し述べ、「一連の研究成果が提起した問題は多く、著者の方法が示唆するものも大きい」(35頁下)と評価しています。
この書評が掲載された『国語学』誌は、井上氏が紹介した(2)から(4)までの論文が掲載された学術誌です。森氏の諸論文のうち、平山氏の批判のきっかけとなった「漢字音より観た上代日本語の音韻組織」も同誌の126集(1981年)に掲載されています。井上氏は読めたはずです。
次は、京大の国語学の助教授であった木田章義氏の書評「森博達著『古代の音韻と日本書紀の成立』(『国語と国文学』824号、1992年8月)です。木田氏は、唐代音に関する研究が大きく変わらない限り、α群中国音説はゆるがないとしたうえで、こう述べます。
「曽て平山久雄氏に反論があったが、α群とβ群の仮名に共通した物があるという事は音韻とは別の次元で考えるべき事で、α群の仮名が当時の中国語音の体系で説明できるという事実には関わらない。平山氏が錯覚もしくは誤解されたのであろうから、再反論を本書に入れる必要はないだろう」(64頁上)
すなわち、平山氏の批判は勘違いなのだから、森氏の反論を増補した詳しい反論論文などを書いてこの本に収録する必要はない、とするのです。取り上げる必要無し、という判断ですね。
ちなみに、平山氏の森説批判は、森氏が韻母に関する論文を発表しただけで、「頭音論」と「アクセント論」をまだ完成していなかった時期のものです。このアクセント論は、高山倫明氏のアクセント研究に示唆されて行なった分析に基づいていますが、高山氏は、高山「字音声調と日本語のアクセント」(『国語学』54巻3号、2003年。CiNiiで閲覧可能)が示すように、以後は森氏のα群説を活用して上代日本語のアクセントに関する業績をあげていってます。
なお、43歳の若さで世を去り、遺稿集の『上代音韻攷』で有名な有坂秀世(1908~1952)のことを、井上氏は「天才的な音韻学者」(82頁)と呼んで高く評価し、その有坂の説を克服したと称する森説は、平山氏の批判が示すように成り立たないと論じていますが、木田氏の書評の結論はこう書かれています。
「『上代音韻攷』以来、ようやくこの方面の研究が大幅に進んだ」(67頁下)