井上亘氏の再反論「中国人ではありえない理由」に対して、森博達氏が早速反論を寄せられましたので、掲載させていただきます。
(ブログ作者:石井公成)
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「井上さん、論点をそらさないで下さい」
森 博達
井上さん、ご反論、有難うございます。
今回の「論争」の発端は、拙著『日本書紀の謎を解く』に対する井上氏の批判にあります。井上氏は「『日本書紀』の謎は解けたか」(大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社、2011年)で、音韻学の概説(中国音韻学、中古音の概要)から始め、「書紀音韻論」では平山説(α群倭音説、α群原音―倭音説)によって、私のα群原音依拠説を批判しました。井上さんは中国語学のイロハを知らず、小学や音韻学(中古音・唐代北方音等)について数多くの初歩的な誤りを犯し、その「書紀音韻論」では決定的な誤解に基づいて拙著『謎』を批判しました。、私がそれらの誤りや誤解を指摘したところ、井上さんは「アラ探し」と居直りました。このあたりの「論争」については、某氏のブログ「天漢日乗」(8月18日)で次のように評されています。
「ところで、disciplineの違いによる相互不理解なのだが、
森博達先生は、根気よく、井上亘氏の「反論」に答えて
おられるので、頭が下がる。基本的に井上亘氏の中国語
音韻学に関する知識の問題に起因すると思われる誤解に
答えておられるのだが、こういう論争は、おそらく中国
語学のdisciplineを経ていない井上亘氏には、到底納得
できないという話になっちゃうんだろうな。」
ある意味で、非生産的な「論争」です。「アラ探し」という非難をうけて、「井上論文の骨や肉はどこにあるのですか?」と尋ねたところ、「ポイント」として4点を挙げられました。私は前回のコメントで丁寧に解説し、その4点を悉く論破しました。井上さんは今回のコメント(8月22日)で、それに正面から答えず、「逐一反論すると長くなりますし、読者の皆さんもそろそろ飽きてきたでしょうから、今回は少し角度を変えて」、と論点をそらしています。
つまり、4点の「核心」についての私の批判に正面から答えられていないのです。肝腎要の核心です。長くなってもかまいませんし、読者の皆さんもぜひ訊きたいところでしょう。逃げずに丁寧にお答えください。
なお、井上氏のコメントは今回も拙著『謎』『古』についての誤解に満ちているので、説明を補足しておきます。
(1)α群ではカ行を除いて次清音(無声有気音)字の使用を回避している問題です。前回のコメントでこう記しました。
「『音声学的な気音の強弱についても、当然、中国人が敏感なのに対し、日本人は鈍感である。したがって日本人であれば、中国語が堪能であっても、α群のように子音による条件的な気音の強弱を書き分けることは、きわめて困難である』(『古』149頁、『謎』104頁でも例も挙げて説明しています)。その困難さは、日本語母語者である井上さんが、日本語を聞いて個々の気息音の把握を試みられればお分かりになることでしょう。」
井上さん、日本語の気息音の把握を試みられましたか? なお、日本人が複数の字音体系を混用して倭音(漢字の日本音)で表記したβ群歌謡では、次清音字が13字種・延べ155例用いられていますが、その使用はアトランダムで法則性は見られません。つまり当然のことながら、日本語の気息音を正確に表記することなど、β群の日本人表記者にはできなかったのです。
(2)α群で日本語の鼻音マ・ナ行と濁音バ・ダ行を書き分けていない問題です。井上さんは今回のコメントで、次のように述べられています。
「もし仮に両先生がいわれるように、(2)非鼻音化や(3)濁音の無声化が相当程度進展していたならば、ナ・マはダ・バになり、濁音のほとんどは清音になっていたわけですから、中国人には鼻音のナ・マが聴き取れず、非鼻音化したダ・バはよいが、ガ・ザもほとんど聴き取れないことになります。α群の仮名がそういうふうになっていたなら、これは確かに中国人が書いたものだと信じましょう。しかし実際にはそうなっていないわけで、森先生もご著書のなかで、非鼻音化したはずの字母がα群で鼻音のナ・マに使われている点について『やむを得ない混用」と説明されています(『古代の音韻』49頁)。つまり、日本語のナ・マが書けないと困るから混用したということですね。では、それは誰にとって「やむを得ない」ことなのでしょうか。もちろんそれは日本人の方です。」(下線太字は森)
違います。中国人にとって「やむを得ない混用」なのです。
唐代の正音(北方標準音)では、中古音の全濁音は無声音化しました(並母b>p、定母d>t)。その間隙を埋めるように、中古音の鼻音声母は鼻濁音になりました(明母m>md、泥母n>nd等)。つまり当時の正音には日本語にピッタリ適合する鼻音(m・n)も濁音(b・d)も無かったのです。それゆえ、中国人表記者は明母字をマ行とバ行に併用し、泥母字をナ行とダ行に混用せざるを得なかったのです。
日本人(マ・バ、ナ・ダを区別する日本語母語者)であれば、中古音でng韻尾をもち音声的に非鼻音化の進行が遅れていた唐韻(-ang>-a~)の漢字をマ・ナに専用できたはずです。そしてバ・ダには歌韻字を用いれば、区別できるわけです。つまり、次のように書き分けられるのです。
マ(ma):莾(mang>ma~、漢音マウ)――バ(ba):摩(ma>mba、漢音バ)
ナ(na):曩(nang>na~、漢音ナウ)――ダ(da):娜(na>nda、漢音ダ)
実際、中天竺出身の善無畏は梵文字母表の対訳で、このように書き分けています。ところが、中国人はこのような区別することができなかったのです。外国人の耳には区別できる鼻音と鼻濁音は、中国人にとっては同一の音韻だったので区別できなかったのです。有坂さんが説くとおりです(有坂秀世「メイ(明)ネイ(寧)の類は果して漢音ならざるか」、『古』149~150頁参照)。書紀α群では善無畏と違って、マとバ、ナとダを区別していません。これがα群中国人表記説の第2の根拠です。
なお、バ・マやダ・ナと異なり、日本語のガ行には濁音と鼻音の音韻論的対立はありません。したがって両群ともガ行には疑母(ng->ngg-)を専用しています。ザはα群では「蔵」(dzang>tsa~)の1例のみ。この用字については『古』56~57頁・127頁で説明しましたのでご覧ください。
(3)α群では、枝を「曳多(エタ)」、水を「瀰都(ミツ)」のように、日本語の濁音を「多」「都」などの全清音(無声無気音)字で表記した例が、7字種・延べ11例用いられているという問題です。しかも、これら11例はすべて高平調の音節でのみ現れた誤用なのです。日本人が表記したβ群には、このような誤り(日本語濁音に全清音字を当てる)は1例もありません。
井上さんは、「日本人が読み上げた段階で清濁は正しかったはずです。それをたまたま中国人が10例ほど聞き違えたというならば、それこそ偶然の誤りなのではないでしょうか。」と述べています。しかし日本人なら、枝を「エタ」、水を「ミツ」などと間違えるはずがありません。これがα群中国人表記説の最大の根拠です。
(4)α群巻14「雄略即位前紀」の「吾妹」に付けられた「称妻為妹、蓋古之俗乎」という非常識な分注の問題です。玉稿(99~100頁)では、「雄略紀以外はみな実の妻を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこう言う注記があってもおかしくない」と書かれています。これが嘘であることは、再三指摘しました。つまり、井上さんは嘘に基づいてα群中国人表記説を批判しているわけです。今回のご反論では「角度を変えて」、論点をそらせるのではなく、(4)について「嘘」の弁明から始めるのが最低のマナーでしょう。
以上です。井上さんは前回のコメント(8月17日)で、「拙論を批判するなら、この4点を論破すればよいのです」と言われました。それを受けて、私は前回のコメント(8月18日)で、丁寧にその4点を批判したわけですが、今回のコメント(8月22日)では論点をそらしています。折角の機会です。長くなっても結構ですので、私の批判に正面からお答えください。読者の皆様もそれを期待されているはずです(このブログは臨場感があって素晴らしいですね。面白くて為になり、しかも閲覧無料)。
なお、私は25日に訪韓して、9月5日に帰国する予定です。訪韓中は、忠州で開催される「韓国木簡学会夏季セミナー」で特別講演「日本書紀に見える韓国古代漢字文化の影響(続篇)」、成均館大での特講「魏志倭人伝と弥生時代の言語」、ソウル大の奎章閣コロキアムでの講演「日本書紀に見える韓国漢字文化の影響」を行います。また各地の史蹟なども巡るので、PC環境が整わず、すぐにコメントを書き込めないかもしれません。ご了解ください。このブログのことは、韓国でも宣伝に努めます。(8月23日記)
(ブログ作者:石井公成)
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「井上さん、論点をそらさないで下さい」
森 博達
井上さん、ご反論、有難うございます。
今回の「論争」の発端は、拙著『日本書紀の謎を解く』に対する井上氏の批判にあります。井上氏は「『日本書紀』の謎は解けたか」(大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社、2011年)で、音韻学の概説(中国音韻学、中古音の概要)から始め、「書紀音韻論」では平山説(α群倭音説、α群原音―倭音説)によって、私のα群原音依拠説を批判しました。井上さんは中国語学のイロハを知らず、小学や音韻学(中古音・唐代北方音等)について数多くの初歩的な誤りを犯し、その「書紀音韻論」では決定的な誤解に基づいて拙著『謎』を批判しました。、私がそれらの誤りや誤解を指摘したところ、井上さんは「アラ探し」と居直りました。このあたりの「論争」については、某氏のブログ「天漢日乗」(8月18日)で次のように評されています。
「ところで、disciplineの違いによる相互不理解なのだが、
森博達先生は、根気よく、井上亘氏の「反論」に答えて
おられるので、頭が下がる。基本的に井上亘氏の中国語
音韻学に関する知識の問題に起因すると思われる誤解に
答えておられるのだが、こういう論争は、おそらく中国
語学のdisciplineを経ていない井上亘氏には、到底納得
できないという話になっちゃうんだろうな。」
ある意味で、非生産的な「論争」です。「アラ探し」という非難をうけて、「井上論文の骨や肉はどこにあるのですか?」と尋ねたところ、「ポイント」として4点を挙げられました。私は前回のコメントで丁寧に解説し、その4点を悉く論破しました。井上さんは今回のコメント(8月22日)で、それに正面から答えず、「逐一反論すると長くなりますし、読者の皆さんもそろそろ飽きてきたでしょうから、今回は少し角度を変えて」、と論点をそらしています。
つまり、4点の「核心」についての私の批判に正面から答えられていないのです。肝腎要の核心です。長くなってもかまいませんし、読者の皆さんもぜひ訊きたいところでしょう。逃げずに丁寧にお答えください。
なお、井上氏のコメントは今回も拙著『謎』『古』についての誤解に満ちているので、説明を補足しておきます。
(1)α群ではカ行を除いて次清音(無声有気音)字の使用を回避している問題です。前回のコメントでこう記しました。
「『音声学的な気音の強弱についても、当然、中国人が敏感なのに対し、日本人は鈍感である。したがって日本人であれば、中国語が堪能であっても、α群のように子音による条件的な気音の強弱を書き分けることは、きわめて困難である』(『古』149頁、『謎』104頁でも例も挙げて説明しています)。その困難さは、日本語母語者である井上さんが、日本語を聞いて個々の気息音の把握を試みられればお分かりになることでしょう。」
井上さん、日本語の気息音の把握を試みられましたか? なお、日本人が複数の字音体系を混用して倭音(漢字の日本音)で表記したβ群歌謡では、次清音字が13字種・延べ155例用いられていますが、その使用はアトランダムで法則性は見られません。つまり当然のことながら、日本語の気息音を正確に表記することなど、β群の日本人表記者にはできなかったのです。
(2)α群で日本語の鼻音マ・ナ行と濁音バ・ダ行を書き分けていない問題です。井上さんは今回のコメントで、次のように述べられています。
「もし仮に両先生がいわれるように、(2)非鼻音化や(3)濁音の無声化が相当程度進展していたならば、ナ・マはダ・バになり、濁音のほとんどは清音になっていたわけですから、中国人には鼻音のナ・マが聴き取れず、非鼻音化したダ・バはよいが、ガ・ザもほとんど聴き取れないことになります。α群の仮名がそういうふうになっていたなら、これは確かに中国人が書いたものだと信じましょう。しかし実際にはそうなっていないわけで、森先生もご著書のなかで、非鼻音化したはずの字母がα群で鼻音のナ・マに使われている点について『やむを得ない混用」と説明されています(『古代の音韻』49頁)。つまり、日本語のナ・マが書けないと困るから混用したということですね。では、それは誰にとって「やむを得ない」ことなのでしょうか。もちろんそれは日本人の方です。」(下線太字は森)
違います。中国人にとって「やむを得ない混用」なのです。
唐代の正音(北方標準音)では、中古音の全濁音は無声音化しました(並母b>p、定母d>t)。その間隙を埋めるように、中古音の鼻音声母は鼻濁音になりました(明母m>md、泥母n>nd等)。つまり当時の正音には日本語にピッタリ適合する鼻音(m・n)も濁音(b・d)も無かったのです。それゆえ、中国人表記者は明母字をマ行とバ行に併用し、泥母字をナ行とダ行に混用せざるを得なかったのです。
日本人(マ・バ、ナ・ダを区別する日本語母語者)であれば、中古音でng韻尾をもち音声的に非鼻音化の進行が遅れていた唐韻(-ang>-a~)の漢字をマ・ナに専用できたはずです。そしてバ・ダには歌韻字を用いれば、区別できるわけです。つまり、次のように書き分けられるのです。
マ(ma):莾(mang>ma~、漢音マウ)――バ(ba):摩(ma>mba、漢音バ)
ナ(na):曩(nang>na~、漢音ナウ)――ダ(da):娜(na>nda、漢音ダ)
実際、中天竺出身の善無畏は梵文字母表の対訳で、このように書き分けています。ところが、中国人はこのような区別することができなかったのです。外国人の耳には区別できる鼻音と鼻濁音は、中国人にとっては同一の音韻だったので区別できなかったのです。有坂さんが説くとおりです(有坂秀世「メイ(明)ネイ(寧)の類は果して漢音ならざるか」、『古』149~150頁参照)。書紀α群では善無畏と違って、マとバ、ナとダを区別していません。これがα群中国人表記説の第2の根拠です。
なお、バ・マやダ・ナと異なり、日本語のガ行には濁音と鼻音の音韻論的対立はありません。したがって両群ともガ行には疑母(ng->ngg-)を専用しています。ザはα群では「蔵」(dzang>tsa~)の1例のみ。この用字については『古』56~57頁・127頁で説明しましたのでご覧ください。
(3)α群では、枝を「曳多(エタ)」、水を「瀰都(ミツ)」のように、日本語の濁音を「多」「都」などの全清音(無声無気音)字で表記した例が、7字種・延べ11例用いられているという問題です。しかも、これら11例はすべて高平調の音節でのみ現れた誤用なのです。日本人が表記したβ群には、このような誤り(日本語濁音に全清音字を当てる)は1例もありません。
井上さんは、「日本人が読み上げた段階で清濁は正しかったはずです。それをたまたま中国人が10例ほど聞き違えたというならば、それこそ偶然の誤りなのではないでしょうか。」と述べています。しかし日本人なら、枝を「エタ」、水を「ミツ」などと間違えるはずがありません。これがα群中国人表記説の最大の根拠です。
(4)α群巻14「雄略即位前紀」の「吾妹」に付けられた「称妻為妹、蓋古之俗乎」という非常識な分注の問題です。玉稿(99~100頁)では、「雄略紀以外はみな実の妻を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこう言う注記があってもおかしくない」と書かれています。これが嘘であることは、再三指摘しました。つまり、井上さんは嘘に基づいてα群中国人表記説を批判しているわけです。今回のご反論では「角度を変えて」、論点をそらせるのではなく、(4)について「嘘」の弁明から始めるのが最低のマナーでしょう。
以上です。井上さんは前回のコメント(8月17日)で、「拙論を批判するなら、この4点を論破すればよいのです」と言われました。それを受けて、私は前回のコメント(8月18日)で、丁寧にその4点を批判したわけですが、今回のコメント(8月22日)では論点をそらしています。折角の機会です。長くなっても結構ですので、私の批判に正面からお答えください。読者の皆様もそれを期待されているはずです(このブログは臨場感があって素晴らしいですね。面白くて為になり、しかも閲覧無料)。
なお、私は25日に訪韓して、9月5日に帰国する予定です。訪韓中は、忠州で開催される「韓国木簡学会夏季セミナー」で特別講演「日本書紀に見える韓国古代漢字文化の影響(続篇)」、成均館大での特講「魏志倭人伝と弥生時代の言語」、ソウル大の奎章閣コロキアムでの講演「日本書紀に見える韓国漢字文化の影響」を行います。また各地の史蹟なども巡るので、PC環境が整わず、すぐにコメントを書き込めないかもしれません。ご了解ください。このブログのことは、韓国でも宣伝に努めます。(8月23日記)