聖徳太子研究の最前線

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伝承と史実が明確に区別されない本:千田稔監修『聖徳太子』

2010年09月11日 | 論文・研究書紹介

 1970年代後半から80年代にかけて「道教と古代日本文化」ブームが起きると、道教学に通じていない人たちがこの分野に乗り出してきて「あれも道教、これも道教」という粗雑な論を書きまくり、道教学会の専門家たちを歎かせたことは前に書いた通りです

 そうした存在の一人であった歴史地理学者の千田稔氏の監修になる一般向けの本が出ました。

千田稔監修『図説 古代日本のルーツに迫る! 聖徳太子』
(青春出版社、2010年9月、1130円)

 です。題名にあるように、図や地図や年表が多く、見やすい作りになっていますが、古代史や上代仏教史を専門とする若手の研究者たちが分担して書いてそれを千田氏が綿密に監修したものではなく、おそらく一人か少数のジャーナリストが、最新の研究書や事典、『聖徳太子伝暦』など太子を超人として描いた伝統的な太子信仰文献、怪しげなトンデモ本、やや古くなった研究書、想像を働かせた古代史小説や歴史娯楽読み物など、まさに玉石混淆の資料から抜き出してまとめあげたものでしょう。

 序にあたる千田氏の「はじめに」を見ると、冒頭で、

 日本人の聖徳太子に寄せる思いは、憲法十七条の冒頭にある「和を以て貴しとなし……」とする「和」の心である。(3頁)

と言われています。

 こうした認識はそろそろ終わりになったかと思っていたので、この最初の2行を読んだ段階で、読むのを止めようかと思ってしまいました。「憲法十七条」の「和」を重視するようになるのは明治以後であり、その「和」こそ太子の思想の中心であって日本の精神的伝統となってきた、という考え方が広まったのは昭和になってからでしょう。あるいは、千田氏は、こうした立場を意図的に弘めようとしているのか。

 日本人は、太子のことを観音として信仰したり、南嶽慧思の生まれ変わりと信じたり、和国の教主と仰いだり、未来を予言する聖人と見たり、戦さの神として頼ったり、大工の神様として祀ったり、天皇への絶対服従を説いた国家主義の偉人としたりするなど、それぞれの時代や身分・階層や宗派その他に基づく様々な形で崇拝してきたのが実状です。「憲法十七条」によって太子を尊崇した庶民など、どれだけいたか。まして、「和」の心などいうのは、まさに最近になって生まれた言い回しです。

 戦時中の話ですが、客間の床に髪をミヅラに結んだ孝養太子像の版画をかけていた小倉豊文に、「あんたもやっぱり太子様をまつってるのかね?」と尋ねた老棟梁などは、小倉が太子の事蹟を説明してやったところ、「ヘェー、じゃ聖徳太子は男だね!?」とけげんそうな顔で言ったとか(小倉「聖徳太子は男か?!」、『宗教公論』昭和30年6月号)。毎年、太子講に集まって、「番匠の神様」である太子の図像の前でにぎやかに飲食してきた人たちの太子信仰というのは、そうしたものだったのです。

  「はじめに」の2ページ目では、聖徳太子はまったく架空の存在であったはずはなく、魅力があるから信仰が広まったのだろうとし、「その人物は厩戸太子であったことはいうまでもな」い(3頁)と書いてあります。聖徳太子の研究者であれば、ここで読むのをやめる可能性が高いですね。「厩戸太子」などという言い方は、『日本書紀』やその他の文献には見えないものですので。おそらく、「<聖徳太子>は架空の人物だ。実在したのは厩戸王だ」とする大山説に反発するあまり、名称がごっちゃになってしまったのでしょう。

 内容について言えば、この本は一般向けの書物ですので仕方ありませんが、上に述べた「はじめに」の書きぶりから推測されるような内容となっており、百年前に久米邦武が資料を、甲種(確実)、乙種(半確実)、丙種(不確実)の三等級に分けたような史料批判が不十分です。史実である可能性が高い事柄、史実に基づいて潤色した可能性がある事柄、太子信仰の中で生まれたあり得ない伝承、最近の研究から推定される状況、などが多少区別されている箇所もあるものの、全体としては明確に区別されず、どこが史実でどこがいつ頃からの伝承かわからない場合が多いうえ、仏教関連の記述には妙な説明も見られるため、ここではとりあげません。

 千田氏は原稿の綿密なチェックと訂正はしていないと思いますが、多少訂正していたとしても、かつての傾向とこの本の序から見る限り、史料批判と最新の研究成果にある程度基づきつつ興味深い読み物となるよう全面的に書き直すのは無理そうです。

【2010年9月18日 追記】
趣旨を明確にするため、「「憲法十七条」によって太子を尊崇した人」とある部分を「「憲法十七条」によって太子を尊崇した庶民」に訂正します。また、「天皇への絶対服従を説いた国家主義の偉人としたり」は昭和の国家主義の高まりの中でのことですので、削除します。要するに、太子を信仰して四天王寺に詣で、極楽往生を願うような人々は無数にいたものの、「憲法十七条」の第一条の「和」を特別に重視してそれによって太子を尊崇した庶民など近代以前に果たしていたのか、ということです。