聖徳太子研究の最前線

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長屋王は「空想的」だったから道教に傾斜したという空想:長谷寺「銅板法華説相図」の年代について

2010年09月07日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山氏の聖徳太子虚構説にあっては、不比等=儒教、長屋王=道教、道慈=仏教(かつ儒・道にも通じる)、という役割分担が強調されるのみで、長屋王の熱心な仏教信仰については説明されず、他の研究者による関連論文などもまったく紹介されないことは、先に書いた通りです

 例外は、虚構説に関する最初期の論文「「聖徳太子」研究の再検討(下)」(『弘前大学国史研究』101号、1996年10月)と最初の関連著書『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)の以下の箇所だけですが、それも、

 長屋王は、もともと空想的な人物であった。多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れたのはそれ故であったし、道教思想にも傾斜していたことは…… (論文:56頁下、著書:266頁)

と述べられているように、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れた」とあるのみです。しかし、「長屋王は、もともと空想的な人物であった」というのは、大山氏の推測です。長屋王の十代や二十代初期の漢詩・文章・和歌などに既にそうした傾向が見られるというなら分かりますが、そうしたものは全く残されていません。

 大山氏は、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れた」のが「もともと空想的」であった証拠だというのですが、多宝仏や弥勒の信仰を受け容れると「空想的」であるなら、阿弥陀仏を信仰し続けている人は「現実的」ということになるのでしょうか。

 そもそも、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れた」というのも、史料に明確に見えている事柄ではありません。多宝仏塔が描かれ、銘文で多宝仏と弥勒に言及している長谷寺の「銅板法華説相図」は、道教的な言葉が多く、道教思想を根底にしている長屋王願経の願文と似た性格を持っているため、銘文の作者は長屋王願経の願文の場合と同様に唐で学んだ道慈だろうから、この「銅板法華説相図」が作成された戊年とは、道慈帰国以後の養老六年(722)であって、発願の真の主体は長屋王だったのだ、とする大山「長谷寺銅板法華説相図銘の年代と思想」(笹山晴生先生還暦記念会編『日本律令制論集』上巻、吉川弘文館、1993年。後に大山『長屋王家木簡と金石文』収録)に基づいたものです。

 しかし、養老6年なら、長屋王は30代後半です。これを材料にして「もともと空想的」であったなどとは言えません。しかも、「銅板法華説相図」銘が道慈の作だというのは大山氏の推測であり、長屋王がこの「銅板法華説相図」に関係しているとするのも大山氏だけであって、学界では全く支持されていません。

 大山氏の銘文解釈がいかに多くの誤りを含んでいるかについては、いずれ書きますが、そもそも、この「銅板法華説相図」の銘文では、末尾で「飛鳥清御原大宮治天下天皇」のために「道明」が八十人ほどを率いて敬造したと明記されているのですから、名も出てこない長屋王の関与を想定すること自体、無理な話なのです。「空想的」なのは長屋王ではなく、道教的な文句を見ると、すべて長屋王と道慈の共謀だと考えてしまう大山氏の方ではないでしょうか。

 その「銅板法華説相図」の成立年代については、美術史の方面では早くから諸説がありますが、大山氏の主張以後、最も詳細に論じた長谷川誠「長谷寺銅板法華説相図の荘厳意匠について(上)」(『駒沢女子大学研究紀要』8号、2001年12月)、「同(下)」(同、9号、2002年12月)が想定する造立時期は、天武十五年(686)です。

 また、諸説を踏まえた最新の論文である、田中健一「長谷寺銅板法華説相図の図様及び銘文に関する考察」(『美術史』168号、2010年3月)では、成立は「現段階では和銅三年(七一○)説を有力としたい」(520頁下)とされています。

 大山氏の「銅板法華説相図」に関する説が初めて発表された際、厳しく批判して論争になり、最近になってまた次々に関連論文を発表するようになった片岡直樹氏にしても、昨年発表した「長谷寺銅板の”豊山”について」(『奈良美術研究』8号、2009年3月)では、以前と同じ文武二年(698)説です。

 いずれにしても、16年に及ぶ留学を終えて718年に帰国した道慈の関与する余地はありません。したがって、「銅板法華説相図」によって長屋王は「もともと空想的」だったなどとは言えないことになります。

 それにしても、『長屋王家木簡と金石文』では、第二部「長屋王の信仰と金石文」と第三部「聖徳太子像の成立と律令国家」が全体の分量の8割強を占めておりながら、そこで説かれる長屋王の信仰に関する説のほとんどが「空想」であって着実な証拠がないのは驚きです。