聖徳太子研究の最前線

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明治期の美術から見た聖徳太子 : 三上美和「安田靫彦筆《夢殿》」

2010年09月01日 | 論文・研究書紹介
 明治時代になると、聖徳太子については、国学者や儒学者の批判に代わって、近代的な立場からの太子礼讃がなされるようになります。絵画や彫刻においても同様であって、明治の中頃からは、法隆寺の遺物に関する評価が高まるとともに、それまでの伝統的な聖徳太子の絵や像に代わり、西洋美術の影響を受けた太子の絵や彫刻が急激に増えていきます。そうした状況を精査したのが、

三上美和「安田靫彦筆《夢殿》--明治期の聖徳太子顕彰を手掛かりに--」
(『美術史』167冊、2009年10月)

です。

 本論文は、法隆寺金堂の模写にも携わった安田靫彦(1884-1978)が、『法華義疏』執筆中に夢殿にこもって瞑想している聖徳太子を描いた名作、「夢殿」(1912)を柱として、「近代以後、法隆寺遺物の古美術としての価値の高まりと、皇室の祖としての太子顕彰が絡み合い、明治末年に美術と文化の振興者としての太子像に結実していく様相を具体的に指摘」(18頁下)したものです。

 靫彦は、この絵について述べた際、「私は聖徳太子の研究に耽る事十年、或は奈良に赴き太子時代の遺物について種々研究した」と述懐しているそうです。夢殿は太子没後の建立ですので、時代は合わないのですが、当時としては、かなり綿密な研究に基づいた作品であることが知られます。病気による2年間のブランクから復帰して最初の作であるだけに、意欲的な作品であって、当時の評価も高かったそうですが、そうした復帰作のテーマとして太子が選ばれたというのが興味深いところです。

 本論文では、1893年にシカゴで開催された万国博覧会に出展された巨瀬小石「聖徳太子勝鬘経講賛図」も紹介されていますが、出展時の英文タイトルは、”A Great Teacher Shotokutaishi” となっていた由。太子の位置づけがわかりますね。
その少し後の1930年には、「本邦の政憲法文学美術農工百技の開発者」として太子を顕彰する「太子の祭典」が開かれています。

 そのほか、1911年に東京美術学校で太子祭典を行なった際、本尊とされた《聖徳太子》像を高村光雲が作成し、法隆寺管長が開眼供養を行ったとか、同年に似た形で作られた竹内久一の太子像は、日露戦争の戦病者慰霊塔である「護国塔」に奉納するために、太子顕彰を行っていた上宮教会が依頼して作成したとか、こうした太子の絵や像は、大正期以後、従来の孝養太子像などではなく、「唐本御影」のイメージを強めていったとか、興味深い逸話がたくさん紹介されています。

 我々は、近代になって確立された聖徳太子のイメージの影響を受けているのですから、この時期の太子信仰に関する研究は重要です。
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