聖徳太子研究の最前線

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四天王寺と法隆寺の争いが生んだ『聖徳太子伝暦』: 榊原史子「『聖徳太子伝暦』の成立と「四節文」」

2010年09月25日 | 論文・研究書紹介
 前に、日本の民衆は「憲法十七条」の思想によって聖徳太子を尊崇してきたのではないと書きましたが、では何によって尊崇してきたかとなれば、第一にあげるべきは、平安中期成立と推定される『聖徳太子伝暦』が描いた超人・菩薩としての聖徳太子像でしょう。この『伝暦』こそが、以後の太子伝や太子関連文物を作成する際の基本となったからです。

 その『伝暦』の成立事情に関する最新の論文が、

榊原史子「『聖徳太子伝暦』の成立と「四節文」」(『日本歴史』741号、2010年2月)

です。朱雀朝(930~946)頃には『伝暦』は一巻本であったことを明らかにした榊原氏は、その一巻本に、正暦3年(992)に『日本書紀』などの文が加えられて二巻本となり、さらに、寛弘四年(1007)に出現した『四天王寺縁起』(『四天王寺御手印縁起』)からの引用を加え、その年から翌年にかけて現行本である二巻本の『伝暦』が成立したと推測しています。

 この考察において重要な役割を果たしているが、病におかされた聖徳太子が推古天皇に述べた四つの希望を記したとされる「四節文」です。むろん、偽文献です。榊原氏は、「四節文」では、「法隆学問寺」の僧が毎年、三経義疏を講義し、その功徳によって仏教を盛んにして国土を護ることを願うなど、法隆寺を特別視している箇所があることに注目します。

 そこで、その「四節文」は、寛弘四年に出現して注目をあび、四天王寺の人気を高めた偽書、『四天王寺縁起』に対抗するため、法隆寺の僧が早い時期の太子伝である『七代記』を参照して書いたものと推測します。そして、その『四天王寺縁起』と「四節文」を引用していて、「寛弘五年九月」という奧書を持つ『伝暦』の写本が残されている以上、現行本の『伝暦』は寛弘四年から五年の間に成立したはずだと論ずるのです。

 その「四節文」からの引用を加えるなどの増訂をして、『伝暦』を現行の形に仕立てた人物については、問題の『四天王寺縁起』を四天王寺金堂の六重塔の中から発見したとされ、後に四天王寺た庚申堂のために『庚申縁起』を著した四天王寺の慈運ではないかと、氏は推測しています。

 榊原氏は、文献の引用関係とその年代に注意しながら考察を進めていますが、『伝暦』は聖徳太子信仰の面で後世への影響が最も大きかった書物ですので、こうした研究は重要ですね。氏の研究が進展し、『伝暦』の成立過程と影響について詳しく論じた本が早く世に出ることを期待しています。

 なお、この考察で重要な役割を果たしている寛弘五年の奧書を持つ『伝暦』の写本は、杏雨書屋が所蔵するものです。その杏雨書屋がいろいろな意味で聖徳太子研究と縁が深いことは、前に書いた通りです。この辺も、歴史の意外さ、面白さの一つですね。