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仏教と礼の複合に基づく推古朝の政治改革 : 鈴木靖民「遣隋使と礼制・仏教」

2010年09月05日 | 論文・研究書紹介
 前回とりあげた吉田さんの論文では、太子虚構説派においてはあまり注意されてこなかった朝鮮仏教のあり方が重視されるようになっていましたが、この数年、そうした方面に特に力を入れ、日本・韓国・中国の研究者たちによる論文集『古代東アジアの仏教と王権:王興寺から飛鳥寺へ』(勉誠出版、2010年)を編集するに至った鈴木靖民氏が、推古朝の対外関係に関する見通しをまとめた論文を発表しています。

鈴木靖民「遣隋使と礼制・仏教--推古朝の王権イデオロギー--」
(『国立歴史民俗博物館研究報告』152集、2009年3月)

 題名の通り、推古朝のイデオロギーは仏教と礼制が複合して成り立っていたとするものであり、隋・百済との関係を重視したものです。諸氏の最近の研究成果を紹介したうえで、上のような見通しを述べており、末尾には40本ほどの関連論文・研究書が列挙されているため、本論文とそれらの文献を読めば、この10年ほどの間に大幅に進んだ対外関係の研究状況がかなり理解できます。

 同論文で重視されているのは、渡辺信一郎氏の研究です。渡辺氏は、『隋書』音楽志では開皇の初めに楽制改革を進めて七部楽を置いたとして諸国の楽を列挙するとともに、それ以外の「雑(楽)」を挙げるうちに「百済・突厥・新羅・倭国等」の楽が含まれていること、また隋使が倭国を訪問した際、倭国は「鼓吹」によって迎えたことに注目し、600年に朝貢した遣隋使は文帝に倭国の楽を貢納し、見返りに鼓吹楽を下賜されたと推測しています。つまり、皇帝との間に「礼制的身分秩序が構築され」ていたと見るのです。隋との対等な外交といった話ではありません。

 渡辺氏以外にも、楽の授受に関する研究が紹介されていますが、欽明朝に百済が倭国の要請で派遣された五経・易・暦・医学などの博士や僧侶などの中に、四人の「楽人」が含まれることに着目する黒田裕一氏の研究も興味深いものです。

 私は、聖徳太子研究ということではなく、仏教と音楽の関係の歴史という視点からこうした記事やその研究に注意してきており、音楽・芸能と仏教の関係に関するゼミをやった際は、『隋書』音楽志をとりあげて読んだこともありましたが、確かに、楽の授受は仏教の下賜とも似た性格を持っています。儒教の思想・教養としての「楽」、国家の儀礼や皇帝の趣味しての専門の演奏者たちによる「楽」、中国にとりこまれて変容したインド・西域・東南アジアの仏教音楽などを初め、音楽はきわめて多様で複雑な関係があり、重要ですので、それぞれの展開と関係について場合を分けて慎重に見ていく必要があります。

 もう一つ、同論文で重要な役割を果たしているのが、河上麻由子氏の一連の論文です。中国の周辺国家による南朝への「仏教的朝貢」のあり方を検証した河上氏の「遣隋使と仏教」(『日本歴史』717号、2008年2月)などは、学界に大きな衝撃を与えました。インド周辺や東南アジア諸国は、劉宋や梁の皇帝を「天(神)」や「梵王」や「真仏」になぞらえ、「聖王」「聖主」と称し、「救世大悲」その他の仏教用語を盛んに用いて絶讃していたのです。こうした中で仏教を拒否することは、文化・技術の導入と貿易をあきらめるに等しいことになります。

 鈴木氏は、『隋書』では、東夷伝だけでなく、諸伝に諸国の仏塔・僧侶に関する記述があり、「仏教の存否、様態もまた隋の周辺諸国に対する一定の関連を構成する要素であった」(324頁)ことに注意しています。邪馬台国の場合も同じですが、中国の史書中の日本に関する記述を資料として利用する際は、その史書における他の諸国の記述と比べて検討しないと危険です。

 鈴木論文では、推古朝における冠位や憲法や種々の改革は、当時の外交と不可分であり、仏教と礼という二つの思想の複合こそが推古朝の根本であったが、王民・公民に対する統治という点ではまだ未熟であり、蝦夷など周辺の人々の位置づけもできていなかったのが実状とされています。なお、聖徳太子の活動は史実として認められていますが、詳しい検討はなされていません。
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