聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

戦時中の小倉豊文の聖徳太子信仰研究

2010年09月09日 | 小倉豊文の批判的聖徳太子研究
 昭和15年に姫路高等学校教授となった小倉は、四天王寺が刊行していた雑誌『四天王寺』に昭和16年頃から寄稿するようになりました。まとまった論考は、「聖徳太子像の種々相(一)」(『四天王寺』1941年8月号)に始まり、翌年まで続いた 4回の連載です。この掲載の時期、小倉は「太子像集成」と題して巻頭に様々な太子像の写真と簡単な解説を掲載し始めています。むろん、太子礼讃の立場でなされているのですが、伝承を無批判に信じて絶讃するばかりの寄稿者たちの中で、何とか学術性を保とうと努めていることが目につきます。

 この『四天王寺』誌にしても、時局を反映して軍国主義の傾向を強めており、すぐれた仏教学者であった京都大学の羽渓了諦教授なども、昭和14年に連載された「背私向公の実践」と題する「憲法十七条」講演においては、欧米の軍人と違い、必ず死ぬと分かっていながら突撃するのが日本軍の強さの理由であり、これこそ「憲法十七条」の「背私向公」の精神に基づく大乗仏教の感化のおかげだ、などと主張しています。

 また、『四天王寺』の昭和16年3月号では、東條英機陸軍大臣が将兵に通達した「戦陣訓」を、すべての人の座右に置いてもらうためという理由で「特別付録」として全文掲載し、大阪国防館長である陸軍大佐の「戦陣訓」解説を載せるに至っています。

 小倉の「聖徳太子像の種々相(一)」は、そうした時期に連載されたにもかかわらず、聖徳太子の像が作られたというのは、初期の「確実な文献の伝ふるところ」でないと明言し、法隆寺金堂釈迦像は太子等身と言われているとはいえ、その像の顔つきから太子の面相を推定し、長めの「馬顔」だから「厩戸」と呼ばれたとする推定などは「科学的迷信」に過ぎない、として切り捨てています。

 つまり、太子については「大宗教家であり、大政治家であり、大外交家であつて、……恩威兼備の大人格であらせられた」(「聖徳太子像の種々相(四)」、『四天王寺』昭和17年4月号)などと礼讃しつつも、個々の太子関連の伝承や文物については、片端から『聖徳太子伝暦』など後代の信仰の中で生まれたものと判定していったのです。小倉は、太子像の彫刻のうち現存する最古のものは平安後期であるとし、それも「純粋の肖像」ではなく「神像的性格のもの」だと論じていました。

 小倉は、聖徳太子自身についての解明は資料不足で困難であるとして、このような文物から伺われる聖徳太子信仰の成立と展開の研究に力を注いでいました。それには、津田事件の影響もあったことと思われます。小倉は津田と違って聖徳太子大好き人間でしたが、『日本書紀』の太子関連の記述の真偽を追求するような危険な研究は避け、太子を礼讃しつつ、後代の太子信仰にテーマを限定して厳密な批判的研究を行なう道を選んだのでしょう。

 当時は、学生の勤労動員が多くなった結果、付き添う数名の教員以外はやることがないのを利用して調査を重ね、入りびたっていた四天王寺の事務所などは「私の研究室の分室」のようになっていたそうです(小倉「わが心の自叙伝<11>」、『神戸新聞』90年5月15日)。

 そのため、小倉は『四天王寺』の編集にも関わるようになり、「太子鑚仰」の組織も主導するようになったようです。『四天王寺』が『太子鑚仰』と名を変えていた昭和19年9月号の裏表紙を見ると、顧問には法隆寺貫首で唯識学の権威であった佐伯定胤、昭和天皇に「憲法十七条」の外国語訳に関するご進講をした宗教学者の姉崎正治などが名を連ねているほか、「東部」の「企画」担当者は、「石田茂作、花山信勝、坂本太郎、家永三郎、増永吉次郎」、「西部」の担当者は、「禿氏祐祥、小倉豊文、望月信成、藤島達朗、出口常順」という豪華メンバーになっています(小倉と同様、聖徳太子大好き派である家永三郎の名が見えるのが興味深いですね。家永の戦時中の研究については、別に書きます)。

 末尾の「鑚仰だより」では、四天王寺が陸軍に献納した軍用機のうち、「四天王号」と「如意輪号」の命名式が行われたことなどを伝えています。そうした時期だけに、その号に小倉が書いた「太子鑚仰の現在と将来」は、さすがに当時の国家主義的太子観に近づいているように見えます。そこでは、国内国外の様々な太子讃仰運動が列挙されており、東京戦時生活局が都民の精神作興のため「十七条憲法及び其の解説」を七百万都民に印刷配布する計画を昭和18年2月に発表したことなども紹介されています。

 ただ、小倉は、偽書である『大成経』や『五憲法』に基づく太子顕彰運動などについては「深思反省」をうながしており、讃仰の運動・事業だけでなく「諸研究」にも「深甚なる反省を要する」と、述べています。つまり、太子礼讃の度合いを強めつつも、太子の真の偉大さを明らかにするためにこそ、史実と後代の伝承を区別する批判的な研究を進める必要があるのだ、という姿勢は何とか保っていたのです。

 この点では、小倉は、否定傾向が強い津田左右吉よりも、史実を明らかにすることによって聖徳太子を偉大な政治家・外交家として顕彰しようとした久米邦武に近い面があります。小倉が心惹かれていたのは、苦悩する人間としての太子、という面だったようですが…。小倉の聖徳太子研究は、同じ時期に力を傾けていた宮沢賢治研究と共通する性格を持っていました。