聖徳太子研究の最前線

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長屋王は「空想的」だったから道教に傾斜したという空想:長谷寺「銅板法華説相図」の年代について(続)

2010年09月22日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山氏の「長屋王=道教説(道慈協力作文説)」の有力な証拠とされたのが、長谷寺「銅板法華説相図」です。
(銅板・銅版の表記がありますので、引用文ではそれぞれの論文の著者の表記に従います)

 大山氏は、この銅板の銘文は、道明が八十人ばかりを率いて飛鳥清御原大宮治天下天皇のために敬造したと末尾で明言しているものの、実際には、元正天皇のために千仏多宝塔を表現した銅板を作成し、飛鳥清御原大宮治天下天皇、すなわち天武天皇のために「長谷寺の地に特定の建造物として造仏造塔を行う」と述べているのであって、真の発願主体は長屋王であり、銘文は唐から帰国した道慈が書き、養老6年(722)に作成されたとします。「欠失部分を大胆に推測し」、長屋王の名は、銅板右下の欠けた部分にあった可能性があるとしたのです。

 大山氏は、大山氏が銅板を白鳳様式としながら平城遷都以後の722年の作とするのはおかしいと批判した美術史の片岡直樹氏に反論する一方、喜田貞吉、福山敏男、逵日出典氏などの研究を評価しており、すべてに賛成するわけではないものの、長谷寺の創建問題については喜田氏と逵氏によって問題はほぼ解明されているとして自説の有力な根拠としていました。

 特に逵氏については、片岡氏への反論論文では「美術の様式によって絶対年代を推定するというのは文献史家の採らない態度であり、逵氏の如くこれを一顧だにしないのが、むしろ常識的」なのだ(『長屋王家木簡と金石文』「長谷寺銅版法華説相図銘の年代をめぐる諸問題」114頁)と述べて評価していました。大山氏は、同論文の結論でも、「逵氏がこれらを一顧だにしなかった」のは常識的な判断だと書いており(157頁)、「一顧だにしない」という言い方が好きなようです。

 その逵氏は、一昨年に刊行された「元長谷寺の所在について--永井義憲氏説の妥当性について--」(『日本宗教文化史研究』12巻2号、2008年11月)において、逵氏が資料を提供した永井義憲氏が精査を重ね、「銅板は現在の長谷寺創建以前に作成され、観音堂背後の山の裏側の白河に安置されていたものが、後に今の長谷寺に運びこまれた」と論じた論文を紹介して妥当な説と評価したうえで、現地調査に基づく補足を加えましたが、その際、銅板について、

 様式上の考察として片岡直樹氏「長谷寺銅板法華説相図考」(『佛教芸術』第二百八号、平成五年五月)、同氏「長谷寺銅板法華説相図再考--大山誠一氏に答えて--」(『佛教芸術』第二百二十五号、平成八年三月)が詳しく優れている。(33頁)

と述べています。美術史の様式に基づく年代論など「一顧だにし」ないはずの逵氏が、よりによって、美術史家である片岡氏が大山説を批判した二篇の論文を「様式上の考察」例として紹介し、高く評価したのです。

 逵氏はまた、銘文に「釈天真像、降{玄玄}豊山、鷲峯宝塔、涌此心泉」とあるうちの「豊山」を、大山氏が長谷寺のある山ないし長谷寺そのものと見て、「この銘文は、仏教的聖地としての長谷寺がすでに存在していることを前提としているのである」と説いたのは「後の『豊山』の概念からくる速断」(29頁)であって誤りだとしています。 

 さらに、昨年刊行された達氏の講演、「長谷寺創建問題とその後」(『日本宗教文化研究史研究』13巻2号、2009年11号)では、逵氏は美術史家たちの研究について、次のように述べています。

 片岡氏らは美術史の立場から、銅板は(長谷寺)創建と関係がないと早くから言っておられた(16)。これは実に羨ましいかぎりでした。しかしそうならば、銅板は最初から長谷寺にあったのか、そうでなければどこにあったのか、という問題が残り続けたのでありました。(10頁)

 つまり、片岡氏など美術史の人は銅板の様式を重視し、それによって年代を論じており、銅板の作成と長谷寺創建とは別の問題だとしていたので羨ましかったが、長谷寺の歴史を研究している自分としては、銅板が早い時期に長谷寺とは無関係に作られていたなら、銅板を所蔵している現在の長谷寺との関係を明確にしなければならず、それができないままとなっていた、というのです。そして、氏はこう続けます。

 銅版が白河にあったことが明確になった今、銅版は独自の立場で存分に研究を進められるとよい。私も福山氏が「律師長朗申牒」を云々されたことに刺激されて、天平六年(七三四)・天平十八年(七四六)・天平宝字二年(七五六)の三回のうちいずれかという銅板作成の時期を設定しましたが、これは完全に放棄いたします。(10頁)

 すなわち、永井氏の新説によって状況が変わってしまったため、銅板の作成年代を美術史家たちの諸説より大幅に後の時代のものとしたかつての自説は「完全に放棄」すると宣言したのです。そして、注の16では、先ほどの片岡氏による二篇の大山説批判論文のほかに、同氏の「長谷寺銅版法華説相図の創作背景」(『佛教芸術』二一五号、平成六年七月)加えた三篇を引いています。

 一方、大山説の肝心な部分については全く触れられていません。つまり、長谷寺研究の第一人者である逵氏は、大山説のうち、長谷寺の銅板法華説相図の真の発願者は長屋王であって銘を書いたのは道慈だとする主張については、全くとりあげることがないのです。この大山説が正しければ、長谷寺の性格を考えるうえで重要な新説となりますので、長谷寺の研究者としては無視できないはずですが、逵氏は評価どころか批判すらしていません。まさに一顧だにしていないのです。

 ちなみに、先に触れた銘文の「釈天真像」の句のうち、「釈天」について、大山氏は帝釈天と梵天のことだと解釈していますが、そうした場合は、「梵釈」あるいは「釈梵」と称するのが通例です。帝釈天とまぎらわしい「釈天」という語で、帝釈天と梵天とを示した例など見たことがありません。大山氏は、こうした誤りに基づいて銘文を解釈しているのです。この手の誤りは数が多いため、別にまとめて書きます。

 いずれにせよ、大山氏が著書で105頁にもわたって熱心に論じた主張、つまり、長谷寺の「銅板法華説相図」の銘は、長谷寺が存在していることを前提としているのだから、銅板は長谷寺創建に着手した後の成立であり、実際の発願者は長屋王であって銘文を書いたのは718年に唐から帰国して道教にも通じていた道慈だという説は、成り立たないことが明らかになりました。

 『日本書紀』の聖徳太子関連記述に関する「長屋王=道教説(道慈協力作文説)」は着実な証拠がありませんでしたが、その「長屋王=道教説(道慈協力作文説)」を裏付けるはずの長谷寺「銅板法華説相図」に関する大山氏の解釈も、状況はまったく同様だったのです。