聖徳太子研究の最前線

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大山氏の著作に対する史料批判(1):小倉豊文に対する冷遇

2010年08月21日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 『日本書紀』の記述について研究するには、厳密な史料批判が必要であることは、津田左右吉を初めとする近代の歴史学者たちが強調してきたことであり、大山氏自身もその必要性について、しばしば説いています。そこで、その大山氏の著作そのものに対して史料批判を試みてみたところ、いろいろなことが分かってきました。

 「津田左右吉説の歪曲」および「津田左右吉説の歪曲(2)」で見たように、大山氏は、「憲法十七条」を偽作とした津田の主張に関しては、出典を詳しく記しておらず、津田の主張のうち自説に近い箇所、それもおそらくは孫引きで目にした箇所にだけ着目し、それを自説に都合良く解釈したうえで聖徳太子架空人物説の裏付けとしていました。

 出典を正しく記載せず、先学の説をきちんと紹介しない点は、実は、津田に続いて聖徳太子の様々な事蹟を疑った小倉豊文の説に対しても同様でした。つまり、大山氏は、早くから批判的な聖徳太子研究を進めていた津田左右吉と小倉豊文、すなわち、聖徳太子架空人物説論者たる大山氏が最も尊重すべき二人の先学に関して、そうした扱いをしていたのです。

 たとえば、大山「聖徳太子関係史料の再検討(二)」(梅原・黒岩・上田他『実像と幻像』、大和書房、2002年)の冒頭では、自著の『<聖徳太子>の誕生』に触れたのち、聖徳太子非実在説について、

 先の拙著の「あとがき」でも述べておいたように、これは私の説ではなく、久米邦武より始まる近代史学の展開の中で、津田左右吉・福山敏男・小倉豊文・藤枝晃を始めとする研究者たちが築いてきた成果を、ただまとめて結論を明確に示しただけだからである。(376-7頁)

と述べていますが、これは事実と異なります。

 『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)の「あとがき」で名をあげてその説が簡単に紹介されている近代の学者は、久米邦武、津田左右吉、福山敏男、藤枝晃のみです。小倉豊文は、まったく言及されていません。この本に限らず、聖徳太子の生前の名は「厩戸王」であったろうと最初に推測した小倉は、聖徳太子は架空の存在であって実在したのは「廏戸王」だと断言する大山氏の著作にあっては、初めから冷遇されていました。

 聖徳太子架空人物説の出発点となった大山氏の最初の論文、「「聖徳太子」研究の再検討(上)」(『弘前大学国史研究』100号、1996年3月)の冒頭では、「最近において、田村圓澄氏は、廏戸王という実在の人物と、信仰の対象となった聖徳太子を区別し、次のような理解を示された(2)」(4頁)として田村氏の説を評価して紹介しており、末尾の註(2)では、出典として、田村円澄『飛鳥・白鳳仏教史 上・下』(吉川弘文館、一九九四年)をあげています。そして、上の文の少し後で、

 小倉豊文氏の先駆的業績を始め(3)、これまでも廏戸王と聖徳太子を区別してこなかったわけではないが、これほど明確に論じられたことはなかったのではなかろうか。(5頁)

と述べます。「先駆的業績」と称しているものの、実際には小倉の提唱した「厩戸王」という称呼を論証なしで用いた田村説の方を高く評価しているのです。そして、天武朝に「日本の釈迦」としての聖徳太子という信仰が成立したとする田村説に批判を加えた後、次のように説いています。

 小倉豊文氏以来(5)、漠然と天武朝を聖徳太子信仰の画期とする見解が少なくないが、実は天武朝に聖徳太子信仰が成立したという証拠は皆無なのである。(5頁)

 小倉説批判です。同論文において、小倉説に言及しているのは、これがすべてです。同論文を一部修正して収録した大山『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)でも、これらの部分は同じです。「小倉豊文氏以来(5)、漠然と天武朝を聖徳太子信仰の画期とする見解が少なくない」と評していますが、註(5)で参照されている小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎、1963年)では、聖徳太子が執政したという『日本書紀』の記事について、

 天武天皇の朝は周知のごとく日本書紀の編纂がはじまった時であります。また後述するように聖徳太子信仰の盛んになり始めた頃であります。とすると、日本書紀の編者たちが、現実に草壁皇子が皇太子として万記を摂せよとの詔を受けたのを見ており……(30~31頁)

と説いているものの、これはあくまでも太子執政の記述に関する考察であり、聖徳太子信仰の発生時期については、

 実証的には明らかに致し難く、前述の憶説が当たらずとするも、天武朝前後頃のいわゆる白鳳時代から聖徳太子信仰が興ったことは、ほぼ疑いないでありましょう。(60頁)

と述べているだけです。天武朝が「画期」などとは言っていません。また、大山氏は「漠然と……」という表現を用いることによって小倉説を批判していますが、聖徳太子信仰の解明に研究者人生をかけ、膨大な資料を収集してきた小倉が、聖徳太子信仰が生まれた時期について「天武朝前後頃のいわゆる白鳳時代から」と述べるのみでそれ以上特定していないのは、「実証的には明らかに致し難」いからです。道慈が帰国した718年から『日本書紀』が完成した720年までの間に「聖徳太子」が誕生した、などと述べれば明確かもしれませんが、直接資料が無いまま推測に推測を重ねてそうした結論を打ち出すのは、「実証的」な研究態度からほど遠いものです。

 これ以後、現在に至るまで、大山氏の著書・論文においては、小倉の個々の説が詳しく紹介されて評価されたり批判されたりした箇所は、全くありません。しかも、小倉説に言及したこの論文では、小倉の説の出典表記に誤りが見られます。その注は、次のようになっています。

 (1) 家永三郎「歴史上の人物としての聖徳太子」(『原典日本仏教の思想 1』岩波書店、一九九一年)
 (2) 田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史 上・下』吉川弘文館、一九九四年。
 (3) 小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』綜芸舎、一九六三年。
 (4) 大山「『野中寺弥勒像』の年代について」(『弘前大学国史研究』第九五号、一九九三年)
 (5) 小倉豊文、註(2)前掲書。

以上です。これが、同論文を修正して収録した『長屋王家木簡と金石文』の註になると、

 (1) 家永三郎「歴史上の人物としての聖徳太子」(『日本思想大系2 聖徳太子集』岩波書店、一九七五年)
 (2) 田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史 上・下』(吉川弘文館、一九九四年)。
 (3) 小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎、一九六三年)。
 (4) 拙稿「『野中寺弥勒像』の年代について」本書所収)
 (5) 小倉註(2)前掲書。

となっています。家永論文の出典を、再刊時のものから初出時の書名と刊行年に直したほか(これはいろいろな意味で恥ずかしい間違いの訂正です)、論文の註(5)では「小倉豊文、註(2)前掲書」とあったものを、『長屋王家木簡と金石文』では「小倉註(2)前掲書」と修正していますが、論文の註(5)では、(3)とすべき箇所を(2)と誤記しているうえ、表記を修正した『長屋王家木簡と金石文』でもその誤記はそのままになっています。

 つまり、小倉説については具体的に紹介して評価することはなく、触れる場合は名をあげるだけだったり、まれに触れても小倉の主張を歪めたうえで批判するだけだったり、言及していないのに言及したと述べたり、小倉の本を引用する際に註番号を間違えたりしているのです。

 さらに重要なのは、最初の大山論文においては、「廏戸王であるが、歴史的事実として確認できるのは、次の三点であろう」と述べ、第二として「その実名が「ウマヤド(廏戸)であること」を挙げ、生年の干支である「午(うま)」に基づく可能性が高いとしている(6頁)ことです。

 しかし、『聖徳太子と聖徳太子信仰』において「歴史的真実としての聖徳太子と、伝説的信仰上の聖徳太子とは、出来る限り明確に峻別しなければなりません」(1963年版、16頁)と説いた小倉は、「私は「厩戸王」というのが生前の呼称ではなかったかと思いますが」(同、22頁)と述べるにとどめています。「廏戸王」というのは資料には全く見えず、小倉が推定した呼び方であるのに、いつ「実名」として確定し、「歴史的事実」になったんでしょう。

(大山氏は、「ウマヤド」と表記しますが、「ウマヤト」と澄むのが通説であり、また「うま」というのは生年の干支によるという点は、佐伯有清「聖徳太子の実名「厩戸」について」[前掲『聖徳太子の実像と幻像』所収]で批判されています)

 論文で註番号を誤記し、本に収録した際も直っていないのは、単純ミスでしょうが、前に指摘したように、大山氏が津田の主張を紹介する際も、内容を歪めて紹介していたうえ、孫引きくさかったり、出典の表記がなされていなかったり、表記してあっても不十分だったり、論文の註の不備が本になってもそのまま引き継がれていたりしていたことと、妙に似ていますね。そうした人が、『日本書紀』や他の古代文献について厳密な史料批判を行えるのでしょうか。

 大山「聖徳太子関係史料の再検討(一)」(前掲、『聖徳太子の実像と幻像』)では、聖徳太子に関する資料が信頼できないことが広く知られていることについて、

 それは、津田左右吉、福山敏男、小倉豊文、藤枝晃をはじめとする研究者たちの、時には国家権力を敵に回してまで信念を貫いた研究の蓄積そのものといってよいと思う。(343頁)

と述べて評価しているものの、その津田と小倉の説の扱いは、上に述べたような杜撰なものでした。国家主義体制のもとでの聖徳太子礼讃の風潮に流されず、『日本書紀』の史料批判に努めた津田と小倉という尊敬すべき先学の著作を、大山氏がどれほどしっかり読んだのか、本当に敬意をもって著作にあたっているのか、疑わしく思われます。

 特に小倉の場合は、他の人たちと違って説の具体的な内容が紹介されないのですから、小倉がどのような主張をしたのか、大山説とどれほど一致しているのか、読者はまったく分りません。

 小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』は、一般向けの概説であって細かい論証はされていませんが、本書は膨大な資料と原稿を空襲で焼かれてしまい、被爆もして病気がちとなった小倉が、広島大学退官の記念として、「頭脳労働や執筆を禁じられている現状に於て、口述筆記や旧稿抄録の代筆に手を入れて、寝たり起きたりしながら牛歩遅々としてまとめたもの」(初版「はしがき」)であることを考慮すべきでしょう。

 小倉がいろいろな雑誌に発表してきた個別の論文には、立ち入った議論をしたものもあります。どうして、それらを紹介しないのか。しかも、不比等・長屋王・道慈創造説を除けば、太子の多くの事蹟を疑い、行信の役割を重視した点などで、大山説は小倉説と一致している場合が多いのですから、なおさらのことです。
 
 なお、大山氏とともに太子虚構説・道慈述作説を推進してきた吉田一彦さんの「近代歴史学と聖徳太子研究」(大山誠一編『聖徳太子の真実』、平凡社、2003年)は、わかりやすい研究史になっていて有益であり、小倉についても簡単な説明がなされています。ただ、小倉の著書を紹介するにあたり、

 『聖徳太子と聖徳太子信仰』(私家版、一九六三年、のち『増訂 聖徳太子と聖徳太子信仰』<綜芸舎、一九七二年>として再刊)

と書いている(35頁)のは、適切ではありません。

 確かに、同書は定年退官記念として綜芸舎で印刷して私家版として知友に配布されたものの、学術出版社であるその綜芸舎を創設すると同時に古代研究者としても活躍していて小倉を評価していた藪田嘉一郎の勧めにより、印刷したもののうちの一部は綜芸舎(当時の社主は、嘉一郎の息子の夏雄)から発売しています。

 国会図書館や複数の大学図書館にもその市販版が収蔵されており、また、つい最近まで古本市場でも購入できたのですから、出典として一つだけあげるのであれば、「私家版」とせずに「綜芸舎」とすべきでしょう(大山氏は、この点は正しく表記しています)。吉田さんは、同書の最初の版の「はしがき」と増訂版の「はしがき」を、比較しながらしっかり読むべきでした。