聖徳太子研究の最前線

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救世観音と法隆寺金堂四天王像の工人たちは重複している? : 岩田茂樹「法隆寺金堂四天王立像・補遺」

2010年08月05日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺の聖徳太子関係文物は、行信の奏上によって天平十一年(739)に建てられた法隆寺東院に、太子の遺品と称されるものを次々に奉納し、新たな聖徳太子信仰を作り上げた光明皇后と行信らによって捏造されたとする大山誠一氏は、聖徳太子等身と伝えられる救世観音像について、「飛鳥仏とするのは見当違いもはなはだしい。この時に、光明皇后や行信らによって作られたものである」(「<聖徳太子>誕生の時代背景」、『アリーナ』第5号、2008年3月、156頁下)と断言しています。東院が完成した739年に近い頃の作だという主張であって、美術史学の常識を全く無視した説です。

 一方、2008年に「国宝 法隆寺金堂展」を開催するにあたり、X線透過撮影を行うなどして四天王像を詳しく調査した奈良国立博物館学芸部長補佐の岩田茂樹氏は、救世観音は「飛鳥彫刻の代表作」と述べ、聖徳太子が没した622年から山背大兄王一族が滅んだ643年の間の成立とする通説を支持し、650年頃に作成された金堂の四天王像との類似を指摘する論文を発表しています。

岩田茂樹「法隆寺金堂四天王立像・補遺」
(『MUSEUM 東京国立博物館研究誌』623号、2009年12月)

です。

 岩田氏は、邪鬼と岩座の組み合わせの不自然さを指摘し、広目天像と多聞天像とで岩座が入れ替わっているものと推測します。そして、持ち物などから見て、十四世紀には、持国天・増長天像の尊名が現在とは逆であったらしいとして、持ち物の復原を試みています。

 興味深いのは、四天王像は四体とも作風が似ているものの、広目天光背の裏面には「山口大口費」と「木{門<牛}」の二人が作ったと刻され、多聞天光背には「薬師徳保」と妙な名のもう一人が作ったと記されていることから見て、あとの二体についても、この二人組が一体づつ作成したと考え、その組み合わせを推測したことです。

 そして最後に来ているのが、救世観音像との関係の考察です。氏は、樟の一材からの丸彫りに近い構造で、木心を籠め、別材を補助的に矧ぐという点、宝髻を表現せず、頭頂は平彫りである点などにおいて、救世観音像と金堂四天王像は類似していることに注意します。そして、救世観音像の方が正面観照性を保っていて年代が古いと考えられること、また宝冠が似ているものの、650年頃の作成と推測される四天王像ほど形式化していないことから、岩田氏は、これらを作成した工人は同一とまでは言えないまでも断絶があるとか無関係とか見ることもできないとし、聖徳太子が没した622年から山背大兄王一族が滅んだ643年の間の成立と見てよい救世観音像と、650年前後の作成と思われる四天王像については、「工人たちのうち、一部が重複している蓋然性はありえよう」(42頁)と結論づけています。

 実地に詳細な調査を行った専門家ならではの報告であり、聖徳太子、および聖徳太子信仰について考えるうえで、きわめて重要な論文です。