聖徳太子研究の最前線

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片岡山説話を仏教説話として見る : 頼住光子「聖徳太子の片岡山説話についての一考察」

2010年08月15日 | 論文・研究書紹介
 この論文の著者は、「倫理学、日本思想史、比較宗教哲学」などが専門ということもあって、日本史学でも仏教史学でもない独特な観点からの考察です。

頼住 光子「聖徳太子の片岡山説話についての一考察(日本思想学部会報告, 第4回 国際日本学コンソーシアム)」
(大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」活動報告書、平成21年度 学内教育事業編 )

ネット上で見ただけで報告書そのものの奥付は目にしていませんが、論文で引用する場合、どういう形で表記するのか困る出典名ですね。

 さて、頼住氏は、片岡山説話については、「皇太子、遊行於片岡」とあって、「遊行[ゆぎょう]」という仏教用語で始まることが示すように、仏教説話として考察すべきだとします。そして、斑鳩から太子の墓のある磯長に至る途中に片岡山があることに注意し、この説話は、やがて来る太子の死も実は「単なる人間の死ではなくて、聖の死であり、それ故に、この世における応化身としての役割を終えて、色形をこえた法身へと還帰することに他ならないと、『日本書紀』は主張しているのである」(241頁左)と見ます。つまり、片岡山の飢人が死ぬのは、「聖徳太子の死を先取りしたものだといえよう」(242頁)という立場です。

 また、結論の少し前では、「慧慈が自由に自分の死ぬ日を選び、聖徳太子の一年後の命日に死んだように、聖徳太子もまた自由に生死輪廻に出入りし、生死を自由に使いこなせる存在なのである」(242頁左)とあります。

 確かに、片岡山の地理的な位置、推古紀中において片岡山説話が置かれている位置から見て、太子の死と関連するものとして提示されていると見るのは、一つの有効な考え方でしょう。ただ、「生死を自由に使いこなせる存在」といった説き方は、後代の伝承に引きずられすぎている点があるようにも見えます。

 もし、太子は生死を自在に扱える存在なのだ、ということを『日本書紀』が強調しようとしていたのであれば、太子の誕生の場面も、釈尊の前身である菩薩が天から白象の姿で降って摩耶夫人の胎内に宿ったといった類の経典を意識し、太子が自らの意思によってあのように生まれた、ということが強調されて描かれそうなものですし、亡くなる場面も、もっと方便としての涅槃を思わせる描き方になるのではないでしょうか。『日本書紀』の太子関連記述や法隆寺金堂釈迦三尊像銘には、太子を釈尊になぞらえる意識がうかがわれることは確かですが、素朴な程度にとどまっているように見えます。

 なお、慧慈の死について、大山誠一氏は、「翌年の同じ日に自ら命を絶ったというのである」(『長屋王家木簡と金石文』、256頁)としていますが、それは無理です。推古紀のその記事は、予言した通りの日に死んだため「聖」だと分かった、という文脈です。自殺なら、預言した日に死ぬのは当たり前です。

 頼住論文は、その大山説を引用してあるものの、「『日本書紀』の聖徳太子像は分裂しており、その分裂は、複数の『日本書紀』作者たちが、それぞれの思惑に従って自分勝手に聖徳太子に関する叙述を作り上げたことによるとする説も提示されている」(237頁)としています。しかし、「自分勝手に」というのは、大山説の意図するところとは、ずれているように思われます。

 頼住氏がこのように書くのは、大山氏が、著書によって、不比等と長屋王の意向を受けて道慈がほとんど書いたと読めるような書き方をするだけでなく、不比等が儒教部分(つまり「憲法十七条」)を書き、長屋王が道教部分を書き、道慈が仏教関連部分を書いた、と受け取れるような書き方をしている場合もあることが一因となっているのかもしれません。

 なお、頼住氏は、飢人は「異人」であって神の面影をやどしているとし、飢人に与えられた飲食物や衣服は「神に捧げられる神饌であり神衣であるということになる」(238頁右)とも論じています。そうなると、『日本書紀』の聖徳太子関連記述は、カミに関する在来信仰まで含んでいることになりますが、推古紀の原文から果たしてそこまで言えるのか。もし、そうした要素が実際に盛り込まれているのだとしたら、国家の起源を説くために作られた政治色が強い他の様々な神話との関係はどうなっているのか。

 ともかく、賛成・反対の意見は様々でしょうが、いろいろなアイディアが振りまかれている試論でした。