聖徳太子研究の最前線

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正宮と寺の対関係、そして道慈述作説の批判: 平林章仁「天皇の大寺考」

2010年08月28日 | 論文・研究書紹介
 前回、法興寺と推古天皇の宮の関係に触れましたので、寺と天皇の宮の問題を真正面から扱った論文を紹介しておきます。

平林章仁「天皇の大寺考」
(松倉文比古編『日本古代の宗教と伝承』、勉誠出版、2009年3月)

です。

 同論文では、この問題を論じるにあたり、『日本書紀』の仏教関連記述は何らかの事実に基づいたうえで文飾されているのか、まったくの捏造なのか、そして、捏造されたとしたら道慈によるものなのか、の検討から始めています。

 そして、皆川完一氏や勝浦令子氏の研究を参照しつつ、当時の叙位の記事などを検討したうえで、道慈が帰国した718年について、「この頃には『日本書紀』の実質的な編纂事業がほぼ終了していたので、この年に養老律令の撰修に着手したと考えられる」(126頁)と述べ、道慈の関与は疑わしいとしています。

 一方、天皇の仏教拒否という点については、御歳神の信仰と祭儀が海外かもたらされたこと、今木神とともに祭られた渡来系の竈神である久度神の祭祀(平野祭)などが示すように、外国の神信仰と祭儀を国家が受け入れている例もある以上、外国の神だからというだけの理由で倭国王が仏教を拒否するとは考えにくいとし、輝かしい仏像への礼拝などを初めとする仏教の異質性に着目すべきだとします。これは、渡来神を含む神が宮中で祭られていることについて考えるうえでも、重要な指摘ですね。

 天皇と仏教の関係については、百済大宮と百済大寺を同時に造営した舒明天皇の役割を重視し、

 百済大寺・高市大寺・大官大寺・大安寺は倭国王(天皇)家の大寺として法灯を継承する寺院であり、常に倭国王(天皇)の正宮と対で存在・移動したことは重くみなければならない。(144頁)

と述べます。そして、大宮と官寺の関係について検討していますが、吉備池廃寺を百済大寺跡とする説については疑って様々な可能性を探り、皇極天皇の造営した大寺である可能性を示唆しつつ、別の可能性もあるとします。

 舒明天皇が大宮と寺を対の形で造営したことについて、「これは多分に、廏戸皇子の斑鳩宮・斑鳩寺のあり方を意識してのことであったに違いない」(134頁)と述べ、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』が、田村皇子(舒明天皇)が病気の厩戸皇子を見舞った際、厩戸皇子から熊凝村の道場を付与され云々と記し、これが百済大寺となったとしているのは、まったくの虚構ではなかったかもしれない、としています。

 大安寺の伝承は多分に潤色されたものであるにしても、厩戸皇子が斑鳩宮と斑鳩寺を同時に造営したことは事実と認められているのですから、舒明天皇が厩戸皇子の事業の一部を何らかの形で受け継いでいても不思議はありません。

 「おわりに」では、藤原鎌足の病気平癒を願って建てられた山階寺が、遷都のたびに移動して高市の厩坂寺となり、平城京の興福寺となったことを指摘し、古代寺院の遷移は倭国王家の大寺に限らないことに注意し、地域共同体や氏族集団に奉斎された神(神社)は、分祀や勧請はあっても基本的には本来の地を動かないことと対比しています。

 欽明ほかの天皇の仏教に対する態度などに関する推測については、三橋正さんの説を含め、いろいろな角度から考え直してみる余地はあると思いますが、上記のように様々な問題が互いに関わる形で論じられており、多くの検討すべき問題を明らかにしている論考と思われました。
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