聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

光明皇后捏造説の前提となる「聖徳尊霊」の解釈の誤り

2010年08月11日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山誠一氏は、複数の著作の中で、疫病が流行していた天平七年(735)の十二月に、阿倍内親王(後の孝謙天皇)が「聖徳尊霊及今見天朝」のために『法華経』講読の法会を催したという伝承に着目し、実際には聖徳太子を自らの守護神としようとした光明皇后の意向によるものと説いています。
 
 『法隆寺東院縁起』、つまり、斑鳩宮跡の荒廃ぶりを歎いた行信の奏上によって、阿倍内親王が斑鳩宮跡に建てさせたとされる法隆寺東院の縁起では、法会の翌年、「令旨」によって行信が皇后宮職の安宿倍真人らを率い、道慈ほか三百余人もの僧尼を請じて二月二十二日に『法華経』講読の大がかりな法会を行ったとあります。聖霊会の起源ですね。

 大山氏は、記事は阿倍内親王を中心に書いてあるものの、実際にはこれらの催しは母親である光明皇后の意向であったとし、「聖徳尊霊」の「霊」には「神」の意味もあるため、「尊霊」というのは光明皇后が「聖徳太子を神として扱」い、加護を祈ったことを示すとし、「聖徳太子の背後にいるのは、父不比等だったに違いない」(『長屋王木簡と金石文』、280頁)と述べています。

 長屋王の意向によって道教色を帯びていた『日本書紀』の聖徳太子像はこれによって変貌し、光明皇后は行信とともに『天寿国繍帳』その他の聖徳太子関連文物を捏造し始めたというのですから、この「尊霊」の解釈はきわめて重要です。

 この解釈が、長屋王願経の跋に見える「登仙二尊神霊」、特に「神霊」という語を特別視した新川登亀男さんの論文に基づくことは言うまでもないでしょう。新川さんは、これは道教に基づく表現であり、「二尊」、つまり長屋王の亡くなった父母、高市皇子とその妃の「神霊」こそが道教的な霊の秩序の頂点に立って「百霊」を率いるのであり、天皇ですらそれらに守られる存在なのであって、長屋王は生前は長寿と繁栄を保ち、死後は登仙してそうした父母の「神霊」が統括する世界に赴こうとしていた、とされていました。

 大山氏は、この「登仙二尊神霊」に関する新川説を「聖徳尊霊」に応用し、仏教的な守護神としたわけです。新川説では父の高市皇子、大山説では父の不比等の役割が重視されています。この前提となる新川論文が間違っていたことは、前に論文で指摘した通りですが、新川説の誤りに関して、最近、私と同じ見方が出されていることに気づきましたので紹介します。

東京女子大学古代史研究会編『聖武天皇宸翰『雑集』「釈霊実集」研究』
(汲古書店、2010年1月)

です。聖武天皇が自ら謹直な書体で書き写した中国の仏教関連の詩文のうち、越州法華寺の霊実の文章に対する注釈であり、きわめて有意義な研究です。ただ、僧侶の文章に関する共同研究でありながら、史学や文学の研究者中心であって仏教研究者が誰も参加していないことが残念に思われます。

 このうち、ある人が父の「亡霊」のために設けた斎会用に霊実が頼まれて書いた「為人父忌設斎文」の注釈を担当した稲川やよい氏は、長屋王願経跋にも触れています。稲川氏は、跋文のうち、道教的であるとされてきた「百霊影衛」などの句については、敦煌文献中の「為宰相病患開道場文」(P2974)に「百霊影衛」とあるように、敦煌文献に数例見えるほか、『釈霊実集』でも「為人妻祥設斎文」に「万霊符衛」、「大善寺造像文」に「天龍鬼之影衛」とあるなど、似たような言い回しが見られることを指摘します。そして、いずれも仏教文献中で用いられていることから、唐代仏教では道教・儒教の用語を混在したうえで仏教的な文脈で用いていたと論じています(406頁)。

 すなわち、長屋王の「道教思想への接近」説を否定し、長屋王願経の表現は、「そのころ最新の唐代仏教文学を瞬時に反映している」(407頁)ものと見るべきだ、とするのです。妥当な見解でしょう。

 長屋王と仏教の関係について言えば、長屋王家木簡の中には、長屋王が写経所や造寺造塔のための工房を所有していたことを示すものがあることが知られています。奈良国立文化財研究所編『長屋王家・二条大路木簡を読む』(吉川弘文館、2001年)所載の、金子裕之「長屋王の造寺活動」や堀池春峰「大般若経信仰とその展開」などの論文がそうした木簡に論究していますが、大山氏は、長屋王家木簡の専門家でありながら、不比等は儒教志向、長屋王は道教好み、道慈は儒教・道教にも通じた僧侶で仏教担当という役割分担を強調するのみで、こうした論文を引いて長屋王の仏教信仰について論じたことは全くありません。

 なお、光明皇后による聖徳太子関連文物捏造説については、東大寺で開催される東大寺現代仏教講演会(10月30日午後)で、その問題点について詳しく話す予定です。

【8月12日 追記】
史料の名を『法隆寺東院縁起』に改めました。