聖徳太子研究の最前線

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「嘘を積み重ねても学問にならないのですよ」と言いつつ嘘を語った講演CD:大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』(1)

2024年01月08日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 「<聖徳太子>はいなかった」という大山説が学界でまったく相手にされなくなって10年以上たちますが、面白いものを入手しました。

大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』
(CD2枚組:アートデイズ、2011年)

 こんな講演CDが出ていたとは知りませんでした。聞いてみたら、聖徳太子に関する資料は後代に捏造されたものばかりだが、学問というのは「真実を追求するもの」であるため、「嘘を積み重ねてもですね、学問にはならないのですよ」と言いながら、嘘をいくつも語っていました。

 ある文献を610年頃と見るか、630年頃と見るか、650年頃と見るかというのは意見の違いであって、いろいろな説がありえます。ただ、一人だけ720年頃と主張する人がいたら、かなり強引な説ということになりますが、まったくあり得ないわけではありません。

 しかし、文献に書いてないこと、それも学界の常識と異なることを「この文献は~と述べてます」などと語ったら、それは説の違いではないですし、自分の説の証拠として語っていたなら、嘘としか言いようがありません。

 大山氏は、この講演の冒頭で例によって「本名は厩戸王(うまやどおう)」だと断言しています。『日本書紀』にも『古事記』にも『上宮聖徳法王帝説』にも見えず、戦後に小倉豊文がそう推測したものの論証できなかった名であることは、これまで論文やこのブログで何度も書いてきたことです(こちらや、こちら)。大山氏はどうしてそれが本名だと断定できるのか。

 大山氏は、聖徳太子に関する伝承は、斑鳩に宮と寺を建てたこと以外はすべてあやしいと述べ、「宮殿と言っても、要するにそういう邸宅を作ってですね、そして近くにお寺を作る、まあそういう人物は厩戸以外にもたくさんいたわけであります」と説きますが、これは事実と異なります。

 宮と呼ばれるような邸宅と平行して寺を建てた最初の人物は聖徳太子です。蘇我馬子にしても、島庄の邸宅と飛鳥寺は離れていました。斑鳩寺の造営が始まった後、飛鳥周辺で蘇我氏の一族や蘇我氏に近い渡来系氏族が次々に寺を建てていきますが、自分の邸宅の側に壮大な寺を建てたことが明らかな人物は、太子以後は舒明天皇のみであって、それ以前の時期には知られていません。

 そもそも、宮殿すら掘立柱式であった推古朝において、版築で地固めして礎石の上に太い柱を立て、屋根を重い瓦で葺いた壮麗な寺は、馬子の飛鳥寺→馬子が姪である推古天皇のためにその宮を改めて建てた豊浦寺→馬子の娘婿である聖徳太子の斑鳩寺、の順序で建立されたのであって、寺を建てるというのは、百済から招請した技術者たちによって初めて可能になった大事業でした。

 自分の邸宅の一部を改装して小型の仏像を置いたり、小さな仏堂を建てたりするのとは規模が違うのです。つまり、「たくさんいたわけです」というのは、聖徳太子を勢力の無い人物に見せようとして述べた嘘です。

 次に、「憲法十七条」について大山氏は、「立派な文章であります」と評価し、中国の古典を切り貼りして「それなりに高度な文章となっております」と述べ、当時、そんな文章を書けたはずがないと論じます。

 しかし、この録音がなされた2年前には、「憲法十七条」は和習だらけで、初歩的な間違いが多いことを論証した森博達さんの『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)が刊行され、話題になっていました。

 それどころか森さんは、この本が出る前から「十七条憲法の倭習」(『同志社大学考古学シリーズⅣ 考古学と技術』、1988年)などで「憲法十七条」の和習を指摘し、『日本書紀』の他の部分の和習と共通する点から見て後代の作としていました。

 大山氏は、森さんのこうした主張を初めは自説の味方として歓迎し、学会の際に森さんのところに挨拶に行ったことすらあるものの、森さんが大山説を妄想だと批判すると、一転して無視したり批判したりするようになったのです。

 これに続くのが、津田左右吉説に関するデタラメ発言です。大山氏は、津田が「憲法十七条」を疑ったことを紹介する際、「編者が聖徳太子の名を借りてですね、奈良時代の役人に訓戒を与える、お前たちもこれを読め」ということで書いたもので、「『日本書紀』は奈良時代の初めの720年に成立したものですから、ちょうどその頃に作られたものである」と津田は論じた、と述べています。

 しかし、津田は、律令や歴史書を企てつつあった頃に政府の誰かが儒臣に命じて作らせたと述べただけであって、これは学界では天武・持統朝頃と受け止められており、大山氏のように、奈良時代になって『日本書紀』編集の最終段階で編者が作ったなどとする人は一人もいません(大山氏が津田説をいろいろ歪曲していることについては、こちら)。

 もっとひどいのは、「天寿国繍帳銘」に関して述べた部分です。大山氏は、橘大郎女が聖徳太子に向かって、「『あなたは死んでどこへ行くの』と聞いたもんですから、『いや、死んでから天寿国に行くんだよ。心配いらないよ』とか言ったらしいですね」と述べ、そこで大郎女は祖母の推古天皇に頼んで繍帳を作ってもらったということになっているが、この時期にはまだ制定されていない「天皇」という称号が銘文に出ているのはおかしいなどと述べ、これも後代の作とします。

 しかし、良く知られているように、「天寿国繍帳銘」では、

わが大王の告げたまいしく、「世間は虚仮にして、ただ仏のみこれ真なり」と。その法を玩味するに、わが大王は天寿国の中に生れたまうべしと謂(おも)えり。

と記されているだけです。太子が「世間虚仮、唯仏是真」とおっしゃっていた言葉から考えて、天寿国に生まれたに違いないと橘大郎女が考えた、とあるのみであって、太子が「私は天寿国に生まれる」などと述べたとは書かれていません。

 大山氏は、どうせ後代の偽作なのだからと思ってか、当時の史料をまともに読んでおらず、古代史小説みたいな調子で想像を述べたてるのです。ここまで来ると資料の捏造であって、嘘としか言いようがありません。

 大山氏は、「天寿国繍帳」を作らせたという橘大郎女は、兄弟たちに次々に病死された光明皇后が、聖徳太子にすがり、情念によって作り出した架空の人物だなどと、まさに古代史小説のような説を主張しており、こうしたやり方を研究と称しているのです。

 三経義疏については、敦煌文書の権威であった藤枝晃先生たちのチームが、『勝鬘経』の注釈類を調査していて『勝鬘経義疏』と7割ほど一致する写本を発見したため、藤枝先生は『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の注釈を遣隋使が持ってきたものだと論じました。中身を読んでいる仏教学者たちは反対したのですが、井上光貞先生などを除いては仏教にうとい人が多い古代史学界ではこれが通説となりました。

 藤枝説は誤りであって、『勝鬘経義疏』は「憲法十七条」や 『法華義疏』『維摩経義疏』と同様に変格語法が目立ち、中国人の作ではありえないことは、私が早くから指摘しており、このブログでも何度も説明しています。最近は、韓国の変格漢文ととも異なっており、『源氏物語』のように文が長いため、接続詞が発達していなかった日本の作だと論じるようになりました(こちら)。

 それはともかく、重要なのは、藤枝先生たちは、敦煌文献中の「奈93」という写本が『勝鬘経義疏』と7割ほど一致すると指摘し、その元となった詳しい注釈があったらしいと述べているだけであるのに、大山氏は藤枝説を紹介する際、「三経義疏とそっくりなものが敦煌にいっぱいあるんですね」と話を大げさにし、事実でないことを述べていることです。嘘八百とはこのことですね。

 大山氏の嘘はまだまだ続きます。『日本書紀』では法隆寺系の資料が用いられていないことを紹介した部分では、『日本書紀』では670年に斑鳩寺が全焼したとしているのに対して、法隆寺の側は「火災の記録なんてまったく無いと主張してるんですね」と述べます。

 実際には、四天王寺系の資料を用いた『日本書紀』では斑鳩寺の創建が記されず、670年に全焼したことが書かれており、一方、奈良時代に法隆寺の建物や仏像などについて記録した『法隆寺伽藍并流記資材帳』などでは火災に触れていないというだけのことです。

 法隆寺が「いや、火災には遭っていない」などと主張した文献はありません。そうした主張がなされたのは、明治以後の法隆寺再建・非再建論争でのことであって、法隆寺ではなく、学者たちの議論です。

 CDの1枚目のうち、目立つ部分だけとりあげてもこんな調子です。どう解釈するかということで意見が分かれるというレベルの問題でなく、事実でないことを、自説に都合良く語っているのです。大山説が学界で相手にされなくなったのは当然でしょう。やれやれ。

【追記:2024年1月9日】
三経義疏の和習の説明のところなどを少し追加しました。

【追記:2024年1月15日】
敦煌における『勝鬘経』の注釈について、少しだけ補足しました。

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