さて、大山氏が今回、『古事記』の背後には長屋王がおり、「安万侶は長屋王のブレーンとして、その意向を代弁していたとすることも可能なのではなかろうか」(66頁)と説くようになったのは、「道慈が718年に帰国してから<聖徳太子>創作を始めたとすると、720年の『日本書紀』完成まで時間がなさすぎる」という批判に応えるため、というのが理由の一つのようです。
その少し後の頁では、<聖徳太子>を創作した場合の『日本書紀』編纂について、「もちろん、関連する人物にも目配りをする必要があるから、複雑な編纂作業だったはずで、それには多くの人材が参加したことであろう」(68頁)と書かれているのは、その証拠であって、それまでの『日本書紀』最終編纂時創作説がいかに現実離れしていたかを示すものですが、「学問的」な批判を受けて説を変えたとは書いてないですね。
あるいは、大山説では、『聖徳太子の真実』(2003年)所載の「『日本書紀』の構想」論文あたりから、蘇我馬子こそが大王だったのであって『日本書紀』はそれを隠蔽しているのだと主張するようになったため、その場合は系譜の調整など編纂作業がさらに複雑となって時間がかかったはずだから、という事情もあるのかもしれません。
それはともかく、上の安万侶ブレーン説によると、『古事記』作成、とりわけ「上宮之厩戸豊聡耳命」の部分の作成を主導したのは長屋王ということになります。実際、大山氏は、厩戸王は即位していないにもかかわらず、『古事記』末尾には「上宮之厩戸豊聡耳命」とあって天皇なみに「命」の敬称を付けて呼ばれているのは、「この人物を、偉大な文化人として構想すべきという長屋王側の問題提起だったのではないか」(66頁)と書いています。
ところが、その少し前の頁では、「現在の記紀の神話は、天皇を利用しやすくするために不比等が主導して作ったものだったと言ってよい」(59頁)と書かれています。これだと、『日本書紀』だけでなく、『古事記』も不比等が主導したことになりますね。『古事記』は長屋王が安万侶に書かせたという話は、どうなるんでしょう?
さらに、もう少し後の頁では、『日本書紀』の編纂が進む途上で、不比等は『古事記』を長屋王につきつけられ、それを考慮せざるを得ず、「そういう中で、上宮之厩戸豊聡耳命の人物像としての肉付けが進行したのではないだろうか。中心は、やはり、不比等と長屋王であったと思う」(68頁)とあります。不比等は、長屋王が安万侶に書かせた『古事記』完成版を長屋王につきつけられ、以後、長屋王と協力して『日本書紀』編纂に努めたのか、草稿をつきつけられて長屋王で協力して『古事記』を作り『日本書紀』も編纂したのか、あるいは59頁にあるように『古事記』と『日本書紀』の両方を「不比等が主導して作った」のか、一体どれなんでしょう?
大山氏の意図がそのいずれであるにせよ、長屋王と不比等が『古事記』作成に深く関わったことを示す具体的な史料はありませんが、それは『日本書紀』最終編纂段階で不比等・長屋王・道慈が<聖徳太子>を創作したとするこれまでの大山説の場合も同じです。つまり、今回は批判を考慮して説を多少変えたものの、具体的な文献に基づかずに想像だけで書くやり方は、一貫しているのです。
そうした想像の結果、大山説は、今回の論文では、道慈の帰国以前に不比等と長屋王が中心となって<聖徳太子>像やその系譜などをある程度準備していたからこそ、道慈は短期間でそれを完成することが可能だったのだ、という主張に変わりました。<聖徳太子>は『日本書紀』最終編纂段階で一気に創作された、という批判の多かった部分は改めたものの、長屋王と不比等が創作したという点は何とかして守ろうとしたのですね。
しかし、今回のように、長屋王と不比等が<聖徳太子>の源像を早くから準備していたなどと書くと、大山『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)で、
「道慈は、『日本書紀』編纂の最終段階で、その実質的責任者に抜擢されたのである。……もちろん、聖徳太子関係の記事のほとんどが彼によって記されたことだろう。ということは、不比等や長屋王の意向を受けつつも、実質的に聖徳太子を創造したのは道慈だったということになる」(124頁)
と言われるほど高く評価されていた道慈が、「自分の功績を軽視された」と名誉毀損で訴えるのではないかと心配になってしまいます。研究の進展によって説が変わるのは当然ですが、大幅に変えた際は、そのことを明記するのが研究者の義務ではないでしょうか。
ともかく、これまでの大山説では、理想の聖人としての<聖徳太子>については、儒教面を不比等、道教面を長屋王、仏教面を道慈が担当したとし、長屋王がいかに空想的で現実感覚がなく、道教に心を寄せていたかを強調していました。ところが、今度の論文では、その長屋王がきわめて政治色の強い国家神話を説く『古事記』を太安万侶に作らせ、厩戸皇子の神格化も少しさせておいたという話になっています。
ただ、資料に見えないことについてはこのように想像がいろいろ述べられるものの、長屋王邸跡から出土した木簡によれば、長屋王は写経所や造寺造塔のための工房を所有しており、また長屋王は「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」という句を縁に刺繍した袈裟千枚を唐の僧侶たちに送ったと鑑真が語って評価したことが『唐大和上東征伝』に見えるなど、確実な資料にあって長屋王の人物像について考えるうえで重要な事柄については、大山氏は長屋王邸木簡の専門家でありながら著書・論文で触れたことがありません。
上記のように、『古事記』については不比等が主導したとも、長屋王が主導したとも書かれていたわけですが、いずれにせよ、不比等が本当に『日本書紀』の神話作りを主導したとしたら、大山説によれば儒教担当の不比等の意向によって書かれたとされる『日本書紀』の「憲法十七条」は、なぜ神話によって天皇を権威付けようとしないのでしょう?この点は、以前、このブログで書いた通りです。
大山氏は今回の論文の結論では、天皇を「宝器」として頂くのが「天皇制」というシステムであり、その「宝器」たる天皇を輝かせるためには、「現実から遠く遊離した天孫降臨神話などでは不十分で、儒仏道の中国思想により磨き上げねばならなかった。それが<聖徳太子>だったのである」(69頁)と書いてしめくくっています。
そうなると、不比等は、天皇制を確立するために、「現実から遠く遊離した天孫降臨神話などでは不十分」と知りつつその作成に心血を注ぎ、模範的な「天皇」像を示そうとして、天皇でなく厩戸皇子という理想的な「皇太子」を創造し、総仕上げとして、その皇太子が自ら作ったということにして、「憲法十七条」を道慈に指示して書かせたというわけですね。「憲法十七条」は神話にまったく触れないばかりか、「天皇」という語も出てこないんですが……。それに、「憲法十七条」に見えることが早くから知られている法家的な要素については、なぜ触れないのでしょう?
その不比等について、大山論文では、天武10年(681)に律令と歴史書の編纂が始まったと述べた箇所において、「権力の核は持統と不比等だった」(51頁)と述べており、不比等の役割を強調しています。しかし、不比等はこの時はまだ若く、律令作成や国史編纂をリードする政治力があったことを示す資料はありません。
それにもかかわわらず、<聖徳太子>が若い頃から超人的な活躍をしたとする記事を『日本書紀』の創作として否定する大山氏は、その<聖徳太子>を作り出した政治的天才とみなす不比等については、「二○代の若輩に過ぎなかった」のに常識を越えた活躍をしていたとするのです。しかも、推定ではなく、「権力の核は持統と不比等だった」と断定しています。
なぜそう断定できるのか? 「日本書紀の謎」よりもっと「謎」ですね。現存文献からは考えられないことを、そこまで断定して強調するのであれば、いっそエクスクラメーションマークをたくさん付けて、
「天武天皇の詔によって律令と歴史書の編纂を開始した際、『権力の核』は編纂を命じた天武天皇ではなく、持統皇后と、まだ23歳で官位も低く、天武天皇が史書作成を命じた12人のメンバーのうちに名前が見えない不比等だった!!!!!」
などと書いてほしかったところです。学界が大山説を相手にしないのは当然です。
こうした例が示しているように、史料の扱いが厳密でなく、都合の良いところだけ恣意的に用いて想像を重ねていながら断定的に述べるのが大山氏の学風です。ですから、そうした問題点を指摘した論文であれば、「聖徳太子」と書かれた墓誌や「上宮太子」の活躍を示す木簡などが出ようが出まいが関係なく、それは大山説に対する「学問的反論」として成立し、大山説は否定されるのです。実際、そうして否定されてきたからこそ、冒頭で書いたような学界の評価となっている次第です。
『日本書紀』は全体として聖徳太子をどのような人物として描こうとしていたか、という点に注意を向けさせ、議論を呼び起こしたのは、確かに大山氏の功績でしょう。ただ、大山氏は、自分の様々な批判が実は自分自身にも当てはまることを十分自覚しておらず、また、自分がどのような点で批判されているのかが、よく分かっておられないように見えます。
あるいは、すべて承知したうえで、敢えてあのような資料無視の新説提示や断定的な物言いを続けておられるのでしょうか。また、『日本書紀』には「聖徳太子」という語は見えないこと、「厩戸王」は現存文献には出て来ず、本名かどうか不明であることについて、今後もまったく触れないまま、<聖徳太子>と「厩戸王」について語り続けていくのでしょうか。
大山説については、問題提起としての役割は大きかったですし、行動力を発揮して多くの研究者を集め、共同研究を進めて学界に賛否の議論をまきおこし、聖徳太子研究を盛んにした功績は認めてよいでしょう。私自身、大山説のでたらめさに呆れ、反論するために聖徳太子研究に本格的に復帰していろいろ調べるうちに、いくつもの発見をすることができました。大山説のおかげです。
しかし、大山説はマスコミを通じて広まっており、専門家でない人たちがこの想像説を学界の通説と信じてしまうことが懸念されます。そのため、私はこのブログを始めたのですが、今回の『日本書紀の謎と聖徳太子』で大山説がさらに想像頼りになっているのを見るにつけ、次の言葉をお贈りせずにはおれません。「聖徳太子非実在説」論争を、明治・大正・昭和の法隆寺論争のように学問的で実り豊かなものにするためには、この心構えが必要であろうと思われますので。
●「過ちて改めざる、是を過ちといふ」
その少し後の頁では、<聖徳太子>を創作した場合の『日本書紀』編纂について、「もちろん、関連する人物にも目配りをする必要があるから、複雑な編纂作業だったはずで、それには多くの人材が参加したことであろう」(68頁)と書かれているのは、その証拠であって、それまでの『日本書紀』最終編纂時創作説がいかに現実離れしていたかを示すものですが、「学問的」な批判を受けて説を変えたとは書いてないですね。
あるいは、大山説では、『聖徳太子の真実』(2003年)所載の「『日本書紀』の構想」論文あたりから、蘇我馬子こそが大王だったのであって『日本書紀』はそれを隠蔽しているのだと主張するようになったため、その場合は系譜の調整など編纂作業がさらに複雑となって時間がかかったはずだから、という事情もあるのかもしれません。
それはともかく、上の安万侶ブレーン説によると、『古事記』作成、とりわけ「上宮之厩戸豊聡耳命」の部分の作成を主導したのは長屋王ということになります。実際、大山氏は、厩戸王は即位していないにもかかわらず、『古事記』末尾には「上宮之厩戸豊聡耳命」とあって天皇なみに「命」の敬称を付けて呼ばれているのは、「この人物を、偉大な文化人として構想すべきという長屋王側の問題提起だったのではないか」(66頁)と書いています。
ところが、その少し前の頁では、「現在の記紀の神話は、天皇を利用しやすくするために不比等が主導して作ったものだったと言ってよい」(59頁)と書かれています。これだと、『日本書紀』だけでなく、『古事記』も不比等が主導したことになりますね。『古事記』は長屋王が安万侶に書かせたという話は、どうなるんでしょう?
さらに、もう少し後の頁では、『日本書紀』の編纂が進む途上で、不比等は『古事記』を長屋王につきつけられ、それを考慮せざるを得ず、「そういう中で、上宮之厩戸豊聡耳命の人物像としての肉付けが進行したのではないだろうか。中心は、やはり、不比等と長屋王であったと思う」(68頁)とあります。不比等は、長屋王が安万侶に書かせた『古事記』完成版を長屋王につきつけられ、以後、長屋王と協力して『日本書紀』編纂に努めたのか、草稿をつきつけられて長屋王で協力して『古事記』を作り『日本書紀』も編纂したのか、あるいは59頁にあるように『古事記』と『日本書紀』の両方を「不比等が主導して作った」のか、一体どれなんでしょう?
大山氏の意図がそのいずれであるにせよ、長屋王と不比等が『古事記』作成に深く関わったことを示す具体的な史料はありませんが、それは『日本書紀』最終編纂段階で不比等・長屋王・道慈が<聖徳太子>を創作したとするこれまでの大山説の場合も同じです。つまり、今回は批判を考慮して説を多少変えたものの、具体的な文献に基づかずに想像だけで書くやり方は、一貫しているのです。
そうした想像の結果、大山説は、今回の論文では、道慈の帰国以前に不比等と長屋王が中心となって<聖徳太子>像やその系譜などをある程度準備していたからこそ、道慈は短期間でそれを完成することが可能だったのだ、という主張に変わりました。<聖徳太子>は『日本書紀』最終編纂段階で一気に創作された、という批判の多かった部分は改めたものの、長屋王と不比等が創作したという点は何とかして守ろうとしたのですね。
しかし、今回のように、長屋王と不比等が<聖徳太子>の源像を早くから準備していたなどと書くと、大山『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)で、
「道慈は、『日本書紀』編纂の最終段階で、その実質的責任者に抜擢されたのである。……もちろん、聖徳太子関係の記事のほとんどが彼によって記されたことだろう。ということは、不比等や長屋王の意向を受けつつも、実質的に聖徳太子を創造したのは道慈だったということになる」(124頁)
と言われるほど高く評価されていた道慈が、「自分の功績を軽視された」と名誉毀損で訴えるのではないかと心配になってしまいます。研究の進展によって説が変わるのは当然ですが、大幅に変えた際は、そのことを明記するのが研究者の義務ではないでしょうか。
ともかく、これまでの大山説では、理想の聖人としての<聖徳太子>については、儒教面を不比等、道教面を長屋王、仏教面を道慈が担当したとし、長屋王がいかに空想的で現実感覚がなく、道教に心を寄せていたかを強調していました。ところが、今度の論文では、その長屋王がきわめて政治色の強い国家神話を説く『古事記』を太安万侶に作らせ、厩戸皇子の神格化も少しさせておいたという話になっています。
ただ、資料に見えないことについてはこのように想像がいろいろ述べられるものの、長屋王邸跡から出土した木簡によれば、長屋王は写経所や造寺造塔のための工房を所有しており、また長屋王は「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」という句を縁に刺繍した袈裟千枚を唐の僧侶たちに送ったと鑑真が語って評価したことが『唐大和上東征伝』に見えるなど、確実な資料にあって長屋王の人物像について考えるうえで重要な事柄については、大山氏は長屋王邸木簡の専門家でありながら著書・論文で触れたことがありません。
上記のように、『古事記』については不比等が主導したとも、長屋王が主導したとも書かれていたわけですが、いずれにせよ、不比等が本当に『日本書紀』の神話作りを主導したとしたら、大山説によれば儒教担当の不比等の意向によって書かれたとされる『日本書紀』の「憲法十七条」は、なぜ神話によって天皇を権威付けようとしないのでしょう?この点は、以前、このブログで書いた通りです。
大山氏は今回の論文の結論では、天皇を「宝器」として頂くのが「天皇制」というシステムであり、その「宝器」たる天皇を輝かせるためには、「現実から遠く遊離した天孫降臨神話などでは不十分で、儒仏道の中国思想により磨き上げねばならなかった。それが<聖徳太子>だったのである」(69頁)と書いてしめくくっています。
そうなると、不比等は、天皇制を確立するために、「現実から遠く遊離した天孫降臨神話などでは不十分」と知りつつその作成に心血を注ぎ、模範的な「天皇」像を示そうとして、天皇でなく厩戸皇子という理想的な「皇太子」を創造し、総仕上げとして、その皇太子が自ら作ったということにして、「憲法十七条」を道慈に指示して書かせたというわけですね。「憲法十七条」は神話にまったく触れないばかりか、「天皇」という語も出てこないんですが……。それに、「憲法十七条」に見えることが早くから知られている法家的な要素については、なぜ触れないのでしょう?
その不比等について、大山論文では、天武10年(681)に律令と歴史書の編纂が始まったと述べた箇所において、「権力の核は持統と不比等だった」(51頁)と述べており、不比等の役割を強調しています。しかし、不比等はこの時はまだ若く、律令作成や国史編纂をリードする政治力があったことを示す資料はありません。
それにもかかわわらず、<聖徳太子>が若い頃から超人的な活躍をしたとする記事を『日本書紀』の創作として否定する大山氏は、その<聖徳太子>を作り出した政治的天才とみなす不比等については、「二○代の若輩に過ぎなかった」のに常識を越えた活躍をしていたとするのです。しかも、推定ではなく、「権力の核は持統と不比等だった」と断定しています。
なぜそう断定できるのか? 「日本書紀の謎」よりもっと「謎」ですね。現存文献からは考えられないことを、そこまで断定して強調するのであれば、いっそエクスクラメーションマークをたくさん付けて、
「天武天皇の詔によって律令と歴史書の編纂を開始した際、『権力の核』は編纂を命じた天武天皇ではなく、持統皇后と、まだ23歳で官位も低く、天武天皇が史書作成を命じた12人のメンバーのうちに名前が見えない不比等だった!!!!!」
などと書いてほしかったところです。学界が大山説を相手にしないのは当然です。
こうした例が示しているように、史料の扱いが厳密でなく、都合の良いところだけ恣意的に用いて想像を重ねていながら断定的に述べるのが大山氏の学風です。ですから、そうした問題点を指摘した論文であれば、「聖徳太子」と書かれた墓誌や「上宮太子」の活躍を示す木簡などが出ようが出まいが関係なく、それは大山説に対する「学問的反論」として成立し、大山説は否定されるのです。実際、そうして否定されてきたからこそ、冒頭で書いたような学界の評価となっている次第です。
『日本書紀』は全体として聖徳太子をどのような人物として描こうとしていたか、という点に注意を向けさせ、議論を呼び起こしたのは、確かに大山氏の功績でしょう。ただ、大山氏は、自分の様々な批判が実は自分自身にも当てはまることを十分自覚しておらず、また、自分がどのような点で批判されているのかが、よく分かっておられないように見えます。
あるいは、すべて承知したうえで、敢えてあのような資料無視の新説提示や断定的な物言いを続けておられるのでしょうか。また、『日本書紀』には「聖徳太子」という語は見えないこと、「厩戸王」は現存文献には出て来ず、本名かどうか不明であることについて、今後もまったく触れないまま、<聖徳太子>と「厩戸王」について語り続けていくのでしょうか。
大山説については、問題提起としての役割は大きかったですし、行動力を発揮して多くの研究者を集め、共同研究を進めて学界に賛否の議論をまきおこし、聖徳太子研究を盛んにした功績は認めてよいでしょう。私自身、大山説のでたらめさに呆れ、反論するために聖徳太子研究に本格的に復帰していろいろ調べるうちに、いくつもの発見をすることができました。大山説のおかげです。
しかし、大山説はマスコミを通じて広まっており、専門家でない人たちがこの想像説を学界の通説と信じてしまうことが懸念されます。そのため、私はこのブログを始めたのですが、今回の『日本書紀の謎と聖徳太子』で大山説がさらに想像頼りになっているのを見るにつけ、次の言葉をお贈りせずにはおれません。「聖徳太子非実在説」論争を、明治・大正・昭和の法隆寺論争のように学問的で実り豊かなものにするためには、この心構えが必要であろうと思われますので。
●「過ちて改めざる、是を過ちといふ」