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推古紀後半における皇太子記事の謎の空白:井上満郎「渡来人と聖徳太子」

2021年01月22日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山誠一氏は、元旦に掲載されたインタビュー(こちら)では、自説に対する批判は多かったが、学問的な批判で納得できるものは無い、と相変わらず断言していましたね。実際には、説得力のある批判はこれまでに数多く発表されてきました。その一つが、渡来系氏族の研究や京都史の研究で知られる井上満郎氏が書いた次の論文です。

井上満郎「渡来人と聖徳太子-太子「否定」論の一端に触れて-」
(『日文研叢書 共同研究報告』N0.87、2008年12月、こちら

 井上氏は、国民の間には聖徳太子信仰が染みこんでいるという大山氏の主張を認めるものの、聖徳太子の実在を疑って否定する者だけが正常な精神の持ち主であって、そうでないのはすべて「マインドコントロール」のせいだといった言い方は「学問研究の立場を逸脱していると思われる」(450頁)と述べています。

 その井上氏が問題にするのが、『日本書紀』の推古紀における皇太子記事の空白です。『日本書紀』では聖徳太子の様々な呼称を示しており、敏達紀では「東宮聖徳」、用明紀では「厩戸皇子(注で、豊聡耳聖徳・豊聡耳法大王・法主王)」などの名で呼んでいます。しかし、推古紀では、元年の記事で「聖智」を持つ「厩戸豊聡耳皇子」を「皇太子」としたと述べ、その超人ぶりを絶讃して「上宮厩戸豊聡耳太子」という呼称を紹介したのちは、呼称を律令制における正式名称である「皇太子」に統一してその政治的な活動を強調しているにもかかわらず、ある時期から「皇太子」が登場しなくなるのです。推古紀のこの前後の記事はこうなります。

推古9年:「皇太子」、斑鳩に宮室を建てる
推古11年:「皇太子……皇太子……皇太子、天皇に請うて……」
推古12年:「皇太子」が自ら「憲法十七条」を作る。
推古13年:天皇、「皇太子・大臣及諸王・諸臣」に命じて誓願させ、銅と刺繍の仏像を造らせる(こうした誓願の意義を論じた私の論文は、こちら)。
推古14年:天皇、「皇太子」に『勝鬘経』を講義させる。
推古15年:(天皇)神祇尊重を宣言し、「皇太子・大臣」に百寮を率いて神祇を祀らせる。
……
推古21年:「皇太子」、片岡に遊行して「聖」である飢者に出会う。太子も「聖」と評される。
……
推古28年:「皇太子・嶋大臣」が共に議して天皇記・国記などを録す。
推古29年:「厩戸豊聡耳皇子命」薨ず。「上宮太子」を磯長陵に葬る。高句麗に帰国していた慧慈、「上宮皇太子」が崩じたと聞いて悲しみ、「皇太子」のために法会をもよおし、「聖」である「上宮豊聡耳皇子」の薨去を歎き、「太子」が亡くなった以上、生きていても仕方ない、「上宮太子」に浄土で会いたいと願い、翌年の同日に没したため、世間の人は「上宮太子も慧慈も聖だった」と評す。

 つまり、推古21年に太子の神格化が進んだ片岡山飢人の記事がはさみこまれていることを除けば、推古15年から没年前の推古28年までの間は、「皇太子」がまったく登場しないのです。井上氏は触れていませんが、推古15年の記事は編纂時の挿入を疑う研究者もいる記事です。
 
 井上氏は、この長い空白の期間には、遣隋使派遣、隋の使節の来日、国書紛失事件、再度の遣隋使派遣、蘇我系の堅塩媛を「皇太夫人」と認定しての改葬その他、重大な国家的事業がいくつもあったにもかかわらず、皇太子の政治的活動が記されないのは不思議とします。

 氏は、太子を顕彰する『聖徳太子伝暦』などでは、この空白期間のすべての年に太子のすばらしい事績をかかげ、「神格化」していることに注意します。『日本書紀』における聖徳太子像が「捏造」だとしたら、この期間にも『聖徳太子伝暦』のように太子関連記事を設定したはずだと説くのです。そして、そうなっていないのは、「太子が実質的に政治から退くか、あるいは排除されていたことを物語るものと考えてよいように思われる」と述べ、この部分をしめくくっています。

 これは検討すべき指摘ですね。『聖徳太子伝暦』はどの年についても強引なやり方で賞賛記事をでっちあげて記しているのに対し、『日本書紀』は、井上氏のように思う人が出てきても仕方ない不自然な書き方になっているのです。

 このあと、井上氏は蘇我氏の渡来人活用について述べ、聖徳太子と太子に仕えた新羅系渡来氏族である秦河勝の関係を論じた後、有力な天皇候補とされた山背大兄も秦氏と密接な関係があったことに注意します。聖徳太子が「取るに足りない一皇族」であれば、その息子であって天皇の三世である山背大兄が有力な天皇候補者とされて攻撃されるはずがなく、また山背大兄が秦氏の支配する深草や東国の壬生部を勢力圏としていたのは、聖徳太子を継承していた証拠とするのです。壬生(乳)部は王位継承候補者の皇子に生活の基盤として与えられたものですからね。

 確かに、皇太子記事の空白は不自然です。推古元年の記事に「万機を以て悉に委ぬ」とあるように、太子が天皇のなすべきことをすべて代行したのだという建前に立ち、一つ一つの事業に「皇太子が天皇に申し出て~」などとわざわざ書かなかっただけかもしれません。実際、そうした解釈をする研究者もいますが、それにしては、「皇太子が~」という点を強調する推古元年から推古15年までの書き方と、以後の書き方の違いは大きすぎるでしょう。

 少なくとも、この空白時期について『日本書紀』が「皇太子」の役割を強調していないことは確かです。また、推古29年の薨去記事は『日本書紀』では異例なほど詳細なのに、呼称の不統一さが目立ちます。「厩戸」という語は見えるものの、「厩戸豊聡耳皇子命」とあって「うまやとのとよとみみのみこのみこと」という特別な尊称のされ方をしており、この「~命」という尊んだ呼び方は、『日本書紀』以前に作成された『古事記』に「上宮之厩戸豊聡耳命」という尊称で見えているのと同じです。

 薨去記事では「皇太子」とだけ呼んだ箇所は一例見えるものの、他では「上宮皇太子」と称したり、「上宮太子」と言ったり、単に「太子」と呼んだりしており、まったく不統一です。民間では「上宮太子」と呼んでいたのだという解釈もあるかもしれませんが、「上宮太子を磯長陵に葬る」というのは公式記事の扱いですよ。これは、『日本書紀』の太子関連記述は、様々な系統の既存の史料を切り貼りして潤色しているのであって、この没年の部分だけ潤色が不十分であったことを示すように思われます。

 となると、『日本書紀』の最終編纂段階で単なる一王族をモデルとし、律令制における理想的な天皇像を示すために聖人としての<聖徳太子>を捏造したとされる人たちは、推古紀では呼称を「皇太子」に統一して「皇太子」の役割を強調したものの、推古15年まで作業してきて面倒になったのでその作業をやめ、最後の推古29年のところは複数の系統の既存史料をそのまま貼り込み、呼称の統一もきちんとやらなかったのでしょうか。その場合、厩戸皇子を「上宮太子」と呼ぶような系統(おそらく寺院系)の史料は、『日本書紀』成立以前から、「太子」を聖人扱いしていたことになりますが……。

【付記:2021年1月23日】
 上では、推古紀前半が「皇太子」という点をいかに強調していたかに触れましたが、このことについては、遠山美都男『聖徳太子の謎』(宝島社、2013年)が、『日本書紀』では「聖徳太子は律令国家の皇太子の理想像」(40頁)として描いているのであって、大山氏が言うように律令制における理想的な天皇像を示すためではないとしている通りです。大山氏が自説に対する学問的な反論はないとしつつ、こうした指摘を受けて微妙に説を変化させていることを、元旦の新聞インタビューを扱った記事に付記しておきました(こちら)。
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