聖徳太子研究の最前線

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「天寿国繍帳」多至波奈大女郎=架空人物説の創唱者

2010年05月26日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 山尾幸久先生は、『聖徳太子の実像と幻像』所載の論考では、大山誠一氏の説を意義有る問題提起として高く評価しつつ、個々の主張についてはかなり厳しく批判されています。とりわけ、「天寿国繍帳」は光明皇后の「情念の所産」であって多至波奈大女郎は架空の人物だという説については、「驚天動地である」として疑問を列挙されました。むろん、大山氏の新説と見ての対応です。
 
 実際、大山氏は、複数の著書や論文で光明皇后「情念の所産」説を述べており、聖徳太子の薨日を二月五日とする『日本書紀』に反して、二月二十二日説が定着したのも、天平八年のこの日に光明皇后が道慈らを招いて大がかりな『法華経』講読法会を行ない、後の聖徳太子御忌(聖霊会)の先駆をなしたためとしていますが、先行学説があるとは書いていません。

 しかし、藪田嘉一郎氏の論文、「聖徳太子薨日信仰の形成」では、「天寿国繍帳」を作らせたのは光明皇后であると断言しています。そして、大山氏と同様に、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘も聖武朝の成立とし、銘文に述べられているのは「太子の王后の心情によそえた光明皇后のそれであると思われる」と明言し、多至波奈(橘)大女郎には光明皇后の母である「橘犬養宿禰三千代の連想もあった」と推測しています。この他にも、大山説と共通する点がいくつか見えています。

 大山氏は、薨日を二十二日にしたのは長屋王を謀略で滅ぼした二十月十二日を考慮した光明皇后の作為とするのに対し、藪田氏は二月二十二日を「真の薨日」とするなど、いくつかの点で違いがあり、大山氏は藪田氏の論文は読んでいないようです。ただ、藪田論文は、目につきにくい雑誌にわかりにくい題名で掲載されていたわけではなく、「聖徳太子薨日信仰の形成」というそのものずばりの題名で、この分野の中心学術誌であった『聖徳太子研究』誌の第6号(昭和46年11月)に掲載されています。

 太子の薨日について議論するのであれば、当然読んでおくべきでした。また、偶然、考えが一致しただけであって、藪田論文に後になって気づいたとしても、自分の主張中の重要な論点について似た説を述べている先行論文があれば、必ず触れるべきでしょう。
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