聖徳太子研究の最前線

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信じがたい伝承の再評価

2010年05月25日 | 論文・研究書紹介

 武田佐知子編『太子信仰と天神信仰--信仰と表現の位相--』(思文閣、2010年5月、352頁、6500円)がこのほど刊行され、執筆者の一人である松本真輔さんが送ってくれました。有り難うございます。

 松本さんの論文「拡散する聖徳太子伝承--近江に広がる聖徳太子寺院建立伝承と守屋合戦譚の展開--」は、『日本書紀』や『上宮聖徳法皇帝説』などでは近江との関係はなく、10世紀頃成立の『聖徳太子伝暦』でも、鞍作鳥に対して太子が「近江坂田郡水田二十町」を与えたといった程度の記述しかないにもかかわらず、後になると、太子が近江で四天王寺の瓦を作らせたとか、近江に来て寺院を建立したとか、はては守屋との合戦に敗れて近江まで逃げのび、土地の民が掘ってくれた穴に隠れた、といったとんでもない話まで出てくるほど伝承が広がっていく過程を検証したものです。

 もちろん、ありえない伝承ばかりなのですが、聖徳太子を研究するに当たって考えなければならないことは、伝承というのは、ある人物が亡くなってから発生して広がるとは限らないということです。古代エジプトの王を考えてみるまでもなく、権力の頂点に立つ者や、その座に登ろうとする者、あるいはその周辺の者たちは、神格化を試みるのが常でした。というより、「神格化される以前の、一人の人間としての誰々」といったとらえ方自体、近代的なものであることに注意すべきでしょう。治世者階級の上層で生まれ、斑鳩宮を建て、最新の壁画で飾られた斑鳩寺を建てるような人物であれば、生きているうちから様々な奇跡譚が語られても不思議ではありません。中国の仏教文献を見ても、熱心な仏教信者には、生前から霊験譚がつきものです。

 私は仏教史学会の聖徳太子シンポジウムでは、梁の昭明太子に対して、光宅寺法雲が「殿下は生まれながらの知恵と優れた見識を持っておられ、議論では論じ方が素晴らしいため、天の神々も讃歎して天の華を雨ふらすほどでございます」と賞賛する手紙を送っていたことに触れました。実際、昭明太子はなかなかの秀才でしたが、そうした貴人に対しては、上のような表現をするのが礼儀であり、また古代には実際にそうしたとらえ方をする場合も多かったのです。

 今回の松本さんの論文で紹介されている諸伝承は、むろん史実ではありませんが、『日本書紀』や古い時期の太子伝承のいくつかについては、上記のような視点から検討し直さなければならないと考えています。あと、漢文のレトリックという問題もありますね。

2010年6月12日追記: 太子伝と近江国との関係については、松本さんの論文を要約して上記のように書きましたが、『日本書紀』の推古十四年五月条では、推古天皇が鞍作鳥の功績を賞した箇所に「給近江国坂田郡水田二十町焉。鳥以此田、為作金剛寺。是今謂南淵坂田尼寺。」という記述が有りますので、同論文が「太子の伝記を伝える古代文献、例えば『日本書紀』や『上宮聖徳法皇帝説』には、太子と近江の関係は出てこない」(134頁)と述べるのは正しくありません。また、太子伝ではないものの、「法起寺塔露盤銘」にも太子が「大倭国田十二町、近江国田三十町」の施入を遺言したとありますので、簡単な記述とはいえ関係を説く伝承は早い時期からあったことになります。

2010年6月15日追記: 太子伝以外では、「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」末尾に記された寺領のうち、園地に「近江国栗太郡物部郷四段」、庄倉に「近江国栗太郡物部郷一処」とあり、物部氏の旧領地が含まれていることが着目されます。

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