想像力は、感覚像を裏で支え構想もしている。

2011年08月25日 | 勇気について

2-3-7.想像力は、感覚とは異質だが、感覚像を裏で支え構想もしている。
 夜の暗かった時代には、多くのひとが幽霊を見ていた。びくびくしながら夜道を歩いていると、なにかの影をこわい物に見てしまうのである。想像するのではない。想像たくましく、そのように感覚するのである。恐怖は、想像をそういう恐怖を帯びた方向に一層たくましくしていくのみでなく、現実の感覚自体にも作用してこれを恐怖色に染めてしまう。道端にある長い木の根っことか縄やひもを蛇に見させる。へびでないものを、へびに見るのであるから、ないものを描く想像力がそこでは何らかの形で働いているのであろう。その木の根っこに並べてへびをそこに想像するとか幻覚を見るというのではない。根っこ自体をへびと感覚するのである。
 ひとの目は、単に光を受容しているだけではない。客観的所与の光の波長の違いを色にと主観内で構成し直すことからはじめて、感官を通して与えられる感覚の多様をまとめ構成・構想して感覚像として知覚している。感覚のもとには、その感覚的な多様な印象群をまとめあげ統一していく能動的作用が必要である。視覚に映じた多様な色や形を漫然と眺めているのではない。そこに意味あるものを区切り選び出し構成していく。「ルビンの壷」のように、主体しだいで、壷を見たり相対する人を見たりする。壷と見る場合、「壷」状のものが抽出できそうなので、壷の像を予め想い、その想像にひかれつつ壷の図形をそこに見出していくのであろう。人の横顔を見出すのは、壷の輪郭・凹凸面に注目するとき、ひとの横顔的なものを区切りとれそうで、ひとの像を想起しつつ、これに当てはまるものとしてその凹凸に人の像を読み込んでいくのであろう。痔に悩んでいるひとは、壷でなく、肛門の断面図を読み取るかも知れない。ジブラルタル海峡を眼下にしたり、ガウディ好みの建物の並ぶ狭い街並みで空を見上げてシャッターを切っている感じになるひとがあってもいい。各自想像を予め用意しつつ、目に映る図を想像にあうように区切り意味あるものを読み込んで一定の像をそこに見出していくのである。山道を歩きながら、地面から、線状のもの・丸まったものなど多様なものを視覚に受け入れて、そこに根っこや石ころといったものを読み込み、それらを見出していく。そこで一つの線状のものに、根っこでなく、へびを想像し読み込めたら、そこにへびを見出すことになる。
 感覚に与えられるものが少なければそれだけ意識は自身でこれを補って感覚像もつくりあげていくことになる。暗いところで細長いものが見えれば、なにかと定かでないほどに、大きな補いをしてみていく。そこに恐怖があれば、その方向に危険なものを想像し勝ちで、その想像は、危険なもののなかから感覚されている形状に近いものをもって構想して、細長いものが地面にあれば、蛇を見るようなことになっていく。 
 危険と恐怖の関与する未来の想像は、不確かで変更可能であるが、感覚したものは、事実として確かなものと見なされる。が、感覚像も、想像力(構想力)によって支えられているのであれば、恐怖にとらえられた者がゆがめたり、錯覚してこれを見ている可能性もあることになろう。感覚的な事実といえども、ひとの想像・妄想の影として疑うべき場合もあるわけである。