危険は、未来の禍いへの「想像力」を要する。

2011年08月01日 | 勇気について

2-3.危険は、未来の禍いへの「想像力」を要する。
 胃の調子が悪い、痛むという場合、その現状には苦しさ・辛さの感情をもつ。恐怖とか不安は、その限りでは見出さない。恐怖が生じるのは、その現在を越えて胃ガンかもしれないというような想定をする段階になってのことになる。胃ガンという禍いを想像し、ガンの転移とか死までも連想して、不安になり、恐怖する。 
 禍いの危険は、現在を見るだけでは、出てこない。禍いは未来にあって今はまだ存在せず、未来の想像をもってはじめて意識可能となる。想像というと、像を想うこととしては、感覚様の像を未来方向に描き上げるものになる。だが、未来を想像し、あるいは、現在の感覚像の背後の隠されたものを想像することとしては、(感覚)「像」をふまえて、さらに、感覚できないものを「像」の裏に「想う」ということでもある。禍いを想像し危険を想定するという場合、ひろく、現在の感覚の働きを越えたもの全般を「想像」でもって示す。胃ガンだろうかと想像するとき、感覚的な像を描きだすことは難しい。抽象的な概念としてこれを想うにとどまろう。危険や禍いにいう想像は、ひろく、理性の推論や想定もふくめたものになる。仮定・想定・推定であっても、危険と見なされたら、ひとは、これに恐怖する。
 その想像・想定は、感覚以外の、未知のことを想い量って知ろうとする働き一般だといっても、単なる「空想」「仮想」事までは含まない。危険・禍いを想定・仮定すると恐怖することになるが、それは、その想像に描くものが、仮定とはいえ、現実と無関係の絵空事ではなく、そのまま放置すると現実化する可能性をもつという範囲内には入っていて、回避の恐怖反応を呼ぶのである。未来の禍い(胃ガンや死)はいまはないが、そういう現実的な兆候(胃の痛み)がしっかりと存在しているのである。かつ、恐怖に結ぶことになるには、したがって、勇気を求められることになるのは、「私」の事柄であるということも踏まえている。仮定も想定も、だれかのではなく、この私の価値あるものが奪われる、禍いが私に及ぶということをもってのものである。他人のではなく、自分の胃の痛みを踏まえて、「ひょっとすると自分はガンだろうか」と仮定・想定すると、不安になる。
 確実性をもった推論・判断ではなく、「もしかしたら」という仮定でも、不安になり、恐怖にまで進みうる。自分の結婚式等、大事なことを控えていて、胃が痛いとなるとき、仮に胃ガンだったらと想定すると、(結婚)式どころではない、どうしよう葬式になるかも等、これを悪い方向に想像して、それだけで、不安になっていく。杞憂であっても、仮の、万が一のことでも、ひとは、どんな禍いも寄せ付けないようにと、恐怖と不安をもって、危険には万全の備えをしていく。