(危険の)感覚的想像の感覚的あいまいさ

2011年08月22日 | 勇気について

2-3-6.(危険の)感覚的想像の感覚的あいまいさ
 想像は、狭義には、現実の感覚状態がないのに、感覚像に近いものを描き出すことであろう。感覚「像」を、感覚器官が働かない場面において「想」うのである。想像は、感覚像の希薄になったものだということがある。ヒグマを前にして、恐怖するのは、まだ、襲われる前のことで、つめで自分の体がひっかかれその牙で噛み付かれることを想像して、ゾーとするのである。すこし先に現実的感覚で把握することになるものを、先行して感覚類似の図・像を描く。
 だが、感覚している像があってそのすぐ先(時間的に一瞬先)に想像図を描く場合も、その感覚像と想像図は、そうとうに異なる。想像図は、もうひとつの感覚像とはならない。夢の場合、感覚は働かず脳内のみでの、いわば想像と同じく感覚なしでの感覚様の世界になる。だが、夢は、想像とは見なされない。想像は、夢のような真にせまる感覚像を描かない。また、感覚類似のものが感覚像と並ぶとしたら、それは幻覚と見なされ、想像とは言われない(抽象論理の左脳の支配する現代人とちがい、直感的に生きるひとのもとでは、結構、想像で感覚像といえるようなものを描けるのだともいうが・・)。
 想像は、狭義の、感覚像に近いものであっても、おそらくは、そうとうに非感覚的な抽象像にとどまる。本来的に想像は、感覚とは異質であり、感覚的な具体・個別は不分明になりがちである。想像で菊の花を想い描くとして、その花びらの枚数を数えようとしても無理である。予め枚数を、たとえば16枚と数字を概念的に銘記していた場合には、16枚と想像していける。想像は、概念的な知のリードのもとに描かれるのであろう。
 想像では、感覚世界の一側面のみを、一般的な概念・図式をもって抽象的に描くのであり、具体的現実の感覚的な多様は想像だけでは描けないのではないか。菊の花を想像する場合、はなびらの枚数が数えられないのみでなく、想像する場面について、「いま想像している花は、花瓶にさしてあるのですか、植えられているのですか」と言われても答えられない。葉についている虫も見えない。抽象的に想像しているのである。予め概念的に「虫食い」の葉という意識をもってはじめて、虫食いが想像できる。
 危険・禍いの想像図は、例えばヒグマに襲われる想像は、現に熊がそこにいるのなら、その牙や爪を見ながら、それに重ねて、噛まれるとかひっかかれるとかの概念を想起し、それを感覚図に添付するのであろう。かりに、そこでありありと具体的な感覚図に匹敵するような想像図が描かれるとしたら、それは、想像ではなく、幻覚となる。想像図は、感覚でも(感覚様の)幻覚でもないのだから、感覚と区別され、これに重ねても混合することのない抽象的世界になるのではないか。感覚像が薄められ曖昧になって想像図がなりたつのではなく、非感覚的な、つまり、一般的な観念・概念を始源にして、そこから感覚的な具象世界に沿えるような図像を抽象的に描き出していくのが想像になるのではなかろうか。