恐怖の感情は、危険の的外れな想像にも戦く。

2011年08月08日 | 勇気について

2-3-2.恐怖の感情は、危険の的外れな想像にも戦く。
 胃が傷つくと、誰でもが痛みを感じるが、これに恐怖や不安の感情をもつ者は(したがって勇気が問題となる者は)、かならずしも多くない。恐怖・不安は、いまあるものにいだくのではなく、未来を想像して、胃ガンや胃の切除を想い描いて、これらの想像に、いまは無であるものに、戦(おのの)くのである。もちろん、そのことで、末期ガンで手遅れになることを防止できるのであるが、他面では、ガンではないかも知れないから、その場合は、いわば自分の作り上げた妄想に、無に踊らされていることになる。
 感情は、身体的反応をもつから、感覚的なものと思われがちだが、そうではない。身体反応が必須だけれども、内容的には、感覚的なものから高度に精神的なものまでを含んでおり、したがって、感覚的には無でしかないものも大いにある。悲しみは、喪失の感情だが、喪失したものは、いまはもう存在しない、感覚世界からはとっくに消失したものである。死んだ肉親への悲しみは、何十年も前のことでも、想像(想起)すれば、生じてくる。
 恐怖・不安の感情は、防衛・防御の感情として、未来の禍いに備えるのであり、「ひょっとしたら」という危険・可能性にかかわる。今のところ無にとどまっている禍いへの危険は、さがせばいくらでもある。危険は、ひとによって、想像力の大きいひとと否とで、敏感なひとと否とで、相当に違ったものになる。
 悲しみ(と喜び)は、ほぼ100%間違いのない対応となる。価値の喪失(獲得)が確定して抱くからである。怒りは、邪推してでも怒れるから、少し的外れがある。恐怖・不安は、予防的なものとして、仮にという想像でも、万が一に構えることにも意味がある。したがって、的外れも多くなる。禍い・危険が無の状態にとどまってくれればいいのである。その想像するものが、妄想で、過度の思い込みであっても、危険の可能性が皆無でない限り、これに備えるに越した事はない。
 喜び・悲しみは、過去に向き、もう確定したものに、その終結に抱く。変更不可の、有ったものに抱くのであって、想像によって変更できるようなものではない。想起するのみである。これに対して、恐怖や不安は、禍いの危険という未来に向けて構えるものとして、描く想像の禍いは、未だ無いもので、未確定である。未来は、意志でもって自由に変えることもできる。想像は、禍いの有化を阻止し無に留めよう、その有となる場には自分が居合わせることのないようにしようと、危険排除に方向付けられた未来も描き出す。つぎつぎと出てくる危険を予知し想像して、危険に敏感なひとは、万が一のことにも備えていける。が、場合によっては、ことを針小棒大に否定的に想像して、些細なことに恐れおののくことにもなる。