脅迫は、危険の想像と恐怖を利用する。

2011年08月12日 | 勇気について

2-3-3.脅迫は、危険の想像と恐怖を利用する。
 恐怖は、危険の回避にとかりたてる強力な感情であるが、これを利用するのが脅迫・脅しである。恐喝は、金品を巻き上げるために、暴行等の加害の危険を想像させて、脅す。恐怖させて、実際には加害行為なしで、お金を出させるという目的を実現する。示威や威圧では、力を実際には使わないで強さを見せつけて従わせるが、かならずしも、恐怖までは利用しない。これに対して、脅迫・脅しは、なによりも、ひとの恐怖心を、したがって禍い・危険への想像力を巧みに利用する。
 脅しの利用は、無法者にはかぎられず、広汎である。こどもは、先生から「こんな点では落ちるぞ!」と脅され、医者からは「ほっとったら、死ぬで!」と脅される。国家も、威圧して国民を従わせるのみではなく、違法行為には処罰(禍い)の危険のあることをもって脅して、国民を強制する。動物は、縄張りを守るために、これに入ってきたものを威嚇し脅す方法をとる。きばをむいて攻撃姿勢を見せて、相手が恐怖してひきさがるようにさせる。威嚇・脅しは、実際の暴力行為によって傷つけあうことを避ける穏和な対決方法になる。
 ひとの作った「ししおどし」は、竹筒の音などで鹿や猪を脅して作物荒らしを防止しようという、やさしい穏やかな脅しである。田んぼの「かかし」も雀に対する脅しの人形であるが、これも穏やかである。脅迫は、従わないと、重大な禍いの危険があると想像させる。かつ、暴力団の脅しの場合は、従わないと、実際に暴力に及ぶことになる。そういう脅迫の激烈さからいうと、「ししおどし」は、もっぱら恐怖心をかきたてるだけの、純粋な脅しで、穏和なものである。だが、脅しの根底にある暴力等の加害がないのでは、単なる「こけおどし」ともいえる。「こけおどし」は、その脅しを支える暴行などの禍いが皆無であることの露見しているもので、「虚仮」の「脅し」である。鹿や猪にそれが分かっているのなら、「こけおどし」だが、そうではないのだとしたら、やはり「ししおどし」として効いているのである。脅しは、結構、むずかしい。善としての脅し(脅迫は悪事に限定されるが、脅しは、善悪に言われる)は、国家の国民へのそれなどもそうだが、あまり恐怖させすぎてはいけないし、かといって、危険度を低くみられても効果はないし、ほどあいには工夫がいる。
 脅す者は、できるだけ相手に暴行等の禍いを与えないで済ませたいと思っている。危険の想像を過大に描かせ強く恐怖させて、相手が自主的に従うようになることを目指している。脅迫される方は、そのことをこころえて、短刀をつきつけられたからといって、おびえ逆上して、こちらから手を出したりして暴行を誘うようなことは極力さけるべきである。鬱憤晴らしに、あるいは殺害を目的に短刀を使おうというのでなく、脅し用なのであれば、脅迫する者は、そう安易には暴力は使わないであろう。脅される者は、冷静に理性的に自身を制御して、脅しにとどめさせ、脅しにのらないで無事に済ませる方向にと勇気をふるうことが求められる。


恐怖の感情は、危険の的外れな想像にも戦く。

2011年08月08日 | 勇気について

2-3-2.恐怖の感情は、危険の的外れな想像にも戦く。
 胃が傷つくと、誰でもが痛みを感じるが、これに恐怖や不安の感情をもつ者は(したがって勇気が問題となる者は)、かならずしも多くない。恐怖・不安は、いまあるものにいだくのではなく、未来を想像して、胃ガンや胃の切除を想い描いて、これらの想像に、いまは無であるものに、戦(おのの)くのである。もちろん、そのことで、末期ガンで手遅れになることを防止できるのであるが、他面では、ガンではないかも知れないから、その場合は、いわば自分の作り上げた妄想に、無に踊らされていることになる。
 感情は、身体的反応をもつから、感覚的なものと思われがちだが、そうではない。身体反応が必須だけれども、内容的には、感覚的なものから高度に精神的なものまでを含んでおり、したがって、感覚的には無でしかないものも大いにある。悲しみは、喪失の感情だが、喪失したものは、いまはもう存在しない、感覚世界からはとっくに消失したものである。死んだ肉親への悲しみは、何十年も前のことでも、想像(想起)すれば、生じてくる。
 恐怖・不安の感情は、防衛・防御の感情として、未来の禍いに備えるのであり、「ひょっとしたら」という危険・可能性にかかわる。今のところ無にとどまっている禍いへの危険は、さがせばいくらでもある。危険は、ひとによって、想像力の大きいひとと否とで、敏感なひとと否とで、相当に違ったものになる。
 悲しみ(と喜び)は、ほぼ100%間違いのない対応となる。価値の喪失(獲得)が確定して抱くからである。怒りは、邪推してでも怒れるから、少し的外れがある。恐怖・不安は、予防的なものとして、仮にという想像でも、万が一に構えることにも意味がある。したがって、的外れも多くなる。禍い・危険が無の状態にとどまってくれればいいのである。その想像するものが、妄想で、過度の思い込みであっても、危険の可能性が皆無でない限り、これに備えるに越した事はない。
 喜び・悲しみは、過去に向き、もう確定したものに、その終結に抱く。変更不可の、有ったものに抱くのであって、想像によって変更できるようなものではない。想起するのみである。これに対して、恐怖や不安は、禍いの危険という未来に向けて構えるものとして、描く想像の禍いは、未だ無いもので、未確定である。未来は、意志でもって自由に変えることもできる。想像は、禍いの有化を阻止し無に留めよう、その有となる場には自分が居合わせることのないようにしようと、危険排除に方向付けられた未来も描き出す。つぎつぎと出てくる危険を予知し想像して、危険に敏感なひとは、万が一のことにも備えていける。が、場合によっては、ことを針小棒大に否定的に想像して、些細なことに恐れおののくことにもなる。


想像しなければ、危険も恐怖もない。

2011年08月05日 | 勇気について

2-3-1.想像しなければ、危険も恐怖もない。
 未来に属することがらを想像しなければ、当然、未来の禍いに対する危険は問題にならず、不安も恐怖もいだくことはない。胃が痛くても、「食当り」かと放置して、あとは何も想像しなければ、それで意識には全てである。悲観的な将来像を描かなければ、危険も不安も意識にはのぼらない。あるいは、もっぱらに辛い痛みにとらわれて、胃ガン等の未来の禍いを思うことから遠のいている状態でも、さしあたりは不安・恐怖は生じない。
 感覚的現在を超えたものを描き出していくには、感覚を超えた、いまは存在していないものを想像する能力がいる。危険への恐怖は、いまはないものへの関わりだから、想像の世界に属する。原始的な感覚のみに生きる動物には、痛みはあってもそれから別になった恐怖はないということになろう。
 原始的なヒトデやナマコは、踏まれたり噛まれて禍いを被れば、何らかの痛みを感じその生が損傷しているということで、その状況の解消にと駆り立てられよう。萎縮したり、身の一部を切り離してそこからの逃走を企てる。痛みと恐怖は未分状態であろう。タコぐらいになると、かまれて痛む前にこれを予知して、これから逃れて、禍い自体を避けることが可能になる。痛みに先行して、それの危険を予知する(タコの予知能力はすごいらしい。どうやってタコから聞き出したのかは知らないが、2011年世界サッカー戦、日本女子優勝も予知したとのこと)。そして、これに恐怖して飛んで逃げるとか、噛まれても損傷が軽度で済むように、しっかりと萎縮してかまえる。恐怖が痛みに先行して分かれている。現に損傷を受けて痛むまえに、これを予期して、いうなら、未来方向に、いまはないが、ありうるものを感覚的現在を超えて把握し、これの回避の対応をと、いうなら恐怖反応をもつ。
 はるかを想像・想定できるほどに、恐怖・不安になることも多くなるが、それだけ危険・禍いを回避できるということである。糖尿病など、はるかな危険を読めるものは、失明も足の壊死も回避できるが、危険を想像せず恐怖しないで危険放置のままの気楽な者は、いずれ、失明するなどの禍いを招来して苦しむことになる。想像力をもってはるかな未来を読んで危険を知り、不安・恐怖に駆られて危険回避に向かうことは大いに意味のあることである。
 想像は、未来への楽観的想像でもありうる。禍い襲来の未来とともに、これの阻止の未来もあって、楽観的には、未来は禍いの根を絶った、禍いの無化という無の想像ともなりうる。はるかな大目的をしっかりと未来の方向に意識し続けることは、励みとなり、かつ、よけいな想像でもって不安にとらわれることも抑制する。危険を阻止するのは、未来に向かってである。恐怖の想像でなく、解決のための多彩な想像もあり、禍い無化を先取りして、現在をその方向へと制御していく道がある。危険を避けて、希望の方向に、価値ある幸の方向へと、チャンス・好機へと自己を方向づけていく想像である。


危険は、未来の禍いへの「想像力」を要する。

2011年08月01日 | 勇気について

2-3.危険は、未来の禍いへの「想像力」を要する。
 胃の調子が悪い、痛むという場合、その現状には苦しさ・辛さの感情をもつ。恐怖とか不安は、その限りでは見出さない。恐怖が生じるのは、その現在を越えて胃ガンかもしれないというような想定をする段階になってのことになる。胃ガンという禍いを想像し、ガンの転移とか死までも連想して、不安になり、恐怖する。 
 禍いの危険は、現在を見るだけでは、出てこない。禍いは未来にあって今はまだ存在せず、未来の想像をもってはじめて意識可能となる。想像というと、像を想うこととしては、感覚様の像を未来方向に描き上げるものになる。だが、未来を想像し、あるいは、現在の感覚像の背後の隠されたものを想像することとしては、(感覚)「像」をふまえて、さらに、感覚できないものを「像」の裏に「想う」ということでもある。禍いを想像し危険を想定するという場合、ひろく、現在の感覚の働きを越えたもの全般を「想像」でもって示す。胃ガンだろうかと想像するとき、感覚的な像を描きだすことは難しい。抽象的な概念としてこれを想うにとどまろう。危険や禍いにいう想像は、ひろく、理性の推論や想定もふくめたものになる。仮定・想定・推定であっても、危険と見なされたら、ひとは、これに恐怖する。
 その想像・想定は、感覚以外の、未知のことを想い量って知ろうとする働き一般だといっても、単なる「空想」「仮想」事までは含まない。危険・禍いを想定・仮定すると恐怖することになるが、それは、その想像に描くものが、仮定とはいえ、現実と無関係の絵空事ではなく、そのまま放置すると現実化する可能性をもつという範囲内には入っていて、回避の恐怖反応を呼ぶのである。未来の禍い(胃ガンや死)はいまはないが、そういう現実的な兆候(胃の痛み)がしっかりと存在しているのである。かつ、恐怖に結ぶことになるには、したがって、勇気を求められることになるのは、「私」の事柄であるということも踏まえている。仮定も想定も、だれかのではなく、この私の価値あるものが奪われる、禍いが私に及ぶということをもってのものである。他人のではなく、自分の胃の痛みを踏まえて、「ひょっとすると自分はガンだろうか」と仮定・想定すると、不安になる。
 確実性をもった推論・判断ではなく、「もしかしたら」という仮定でも、不安になり、恐怖にまで進みうる。自分の結婚式等、大事なことを控えていて、胃が痛いとなるとき、仮に胃ガンだったらと想定すると、(結婚)式どころではない、どうしよう葬式になるかも等、これを悪い方向に想像して、それだけで、不安になっていく。杞憂であっても、仮の、万が一のことでも、ひとは、どんな禍いも寄せ付けないようにと、恐怖と不安をもって、危険には万全の備えをしていく。