危険回避には、杞憂・妄想が活躍

2011年08月18日 | 勇気について

2-3-5.危険回避には、杞憂・妄想が活躍。
 喜び(の感情)は、価値物獲得が確定してから抱く。「もし宝くじが当たったら」という仮定・想像では喜べない。「間違いなく当選番号だ」と確定してはじめて驚喜する。だが、恐怖や不安は、不確定どころか、仮定・妄想であっても、そこに自分の危険を想像できれば、不安になり、恐怖することになって、その対処にと駆り立てられる。 
 危険は、仮定・想定でも十分に不安・恐怖を生じさせる。「先日の交通事故のことで、これから知り合いと、お宅まで行くから!」と電話があったら、仮にその「知り合い」が暴力団だったらどうしよう、やっかいなことなるかも知れない、と不安になるであろう。事故の相手がチンピラ風だったから、「恐らくヤクザが・・」と思うと、事実ではなく仮定でしかないとしても、単なる妄想であっても、恐怖することがありうる。そして、現れた「知り合い」が保険関係の人だと分かったら、自分の妄想と臆病を恥じながらも、ほっとすることであろう。事実でない想像・仮定に、虚妄に恐怖していたわけである。
 恐怖は、未来の禍いの危険にするもので、想像なくしては危険も恐怖も成り立たないが、その想像は、ひろく、抽象的な仮定のものでも、いい。想像したものが妄想だからといっても、それは、無意味に恐怖したことにはならない。その可能性はあるから、そう想像したのである。「ひょっとすると、ヤクザに脅されることになるかも・・」と、妄想かも知れないが仮定できるのであれば、無駄になる可能性大であるとしても、万が一に備えることができる。あらかじめ、脅迫の証拠を残すために録音する準備ぐらいはしておこうと慎重な対応をとることができる。
 われわれの日常生活では、禍いと言われるものに実際に出合うことは、そう多くはない。だが、その可能性の危険には、しばしば出合っている。危険の段階で、ほとんどの禍いが回避されているのである。街にでて歩いているだけで、車とか自転車とかに危険な目にあわされる。危険を気にしなければ、ほぼ確実に禍いに出合うことになる。禍いには合いたくないから、危険になりそうなら、その前にこれを察知して危険を避け、さらには、危険と感じないで済むようにもしている。交通信号を守るというのは、危険・恐怖の一歩も二歩も手前での心構えである。事故にあうかもしれないから車には乗らないとか、今日は日が悪いから外出は控えるといった構えになると、危険の三歩も四歩も前のことで、杞憂であり、妄想に近くなるであろうが、そう心がけている人があってもおかしくはない。
 書類を郵送するとき、万が一届かなかったらどうしようと不安になるのは、今の時代、杞憂・妄想の類いになる。しかし、ひょっとしてと紛失を妄想する。その妄想・杞憂が一般にあるからこそ、確実にとどくことになる配達証明の郵便もそろえてある。届いたことの電話があると、自分の妄想・杞憂を若干恥ずかしく思いつつ、安心する。だが、そういう妄想・杞憂にまで心を尽くしているから、危険に満ちたこの世界で、多くの危険を何歩も前から回避して安全に生活できているのである。

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