想像しなければ、危険も恐怖もない。

2011年08月05日 | 勇気について

2-3-1.想像しなければ、危険も恐怖もない。
 未来に属することがらを想像しなければ、当然、未来の禍いに対する危険は問題にならず、不安も恐怖もいだくことはない。胃が痛くても、「食当り」かと放置して、あとは何も想像しなければ、それで意識には全てである。悲観的な将来像を描かなければ、危険も不安も意識にはのぼらない。あるいは、もっぱらに辛い痛みにとらわれて、胃ガン等の未来の禍いを思うことから遠のいている状態でも、さしあたりは不安・恐怖は生じない。
 感覚的現在を超えたものを描き出していくには、感覚を超えた、いまは存在していないものを想像する能力がいる。危険への恐怖は、いまはないものへの関わりだから、想像の世界に属する。原始的な感覚のみに生きる動物には、痛みはあってもそれから別になった恐怖はないということになろう。
 原始的なヒトデやナマコは、踏まれたり噛まれて禍いを被れば、何らかの痛みを感じその生が損傷しているということで、その状況の解消にと駆り立てられよう。萎縮したり、身の一部を切り離してそこからの逃走を企てる。痛みと恐怖は未分状態であろう。タコぐらいになると、かまれて痛む前にこれを予知して、これから逃れて、禍い自体を避けることが可能になる。痛みに先行して、それの危険を予知する(タコの予知能力はすごいらしい。どうやってタコから聞き出したのかは知らないが、2011年世界サッカー戦、日本女子優勝も予知したとのこと)。そして、これに恐怖して飛んで逃げるとか、噛まれても損傷が軽度で済むように、しっかりと萎縮してかまえる。恐怖が痛みに先行して分かれている。現に損傷を受けて痛むまえに、これを予期して、いうなら、未来方向に、いまはないが、ありうるものを感覚的現在を超えて把握し、これの回避の対応をと、いうなら恐怖反応をもつ。
 はるかを想像・想定できるほどに、恐怖・不安になることも多くなるが、それだけ危険・禍いを回避できるということである。糖尿病など、はるかな危険を読めるものは、失明も足の壊死も回避できるが、危険を想像せず恐怖しないで危険放置のままの気楽な者は、いずれ、失明するなどの禍いを招来して苦しむことになる。想像力をもってはるかな未来を読んで危険を知り、不安・恐怖に駆られて危険回避に向かうことは大いに意味のあることである。
 想像は、未来への楽観的想像でもありうる。禍い襲来の未来とともに、これの阻止の未来もあって、楽観的には、未来は禍いの根を絶った、禍いの無化という無の想像ともなりうる。はるかな大目的をしっかりと未来の方向に意識し続けることは、励みとなり、かつ、よけいな想像でもって不安にとらわれることも抑制する。危険を阻止するのは、未来に向かってである。恐怖の想像でなく、解決のための多彩な想像もあり、禍い無化を先取りして、現在をその方向へと制御していく道がある。危険を避けて、希望の方向に、価値ある幸の方向へと、チャンス・好機へと自己を方向づけていく想像である。