ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

比較:影の警察国家(連載第61回)

2022-06-11 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

1‐1‐2:公安警察の再編と拡大

 日本における政治警察の役割を果たす組織の中で権限・陣容共に最大級のものは、公安警察である。ただし、公安警察という統一的な機関が存在するわけではなく、公安警察とは警察庁を頂点とする都道府県警察の公安担当部署の総体を機能的に指すに過ぎない。
 とはいえ、公安警察はその予算が国の支出に係るため、頭部=国、胴体=都道府県という二元的な日本警察のスフィンクス構造の中にあっても、「国家警察」としての性格が濃厚な部分である。言わば、頭部が直轄している胴体部位である。
 そうした公安警察の指令センターとなるのが警察庁警備局であるが、同局は機動隊に象徴される警備警察の管理も兼ねており、形式上は警備警察の中に公安警察が組み込まれる構制となっていることが特徴的である。実際、全国でも独立した公安部を持つのは警視庁のみであり、その余の道府県警察では警備部に公安部署が包設される形である。
 その点、戦前の国家警察制度の中で秘密政治警察として思想弾圧の猛威を振るった特別高等警察とは異なり、思想・表現の自由が広く保障されるようになった戦後の公安警察は単体で活動するものではなく、あくまでも警備警察の一環として、むしろ補助的な役割を果たすはずのものであった。
 ところが実際のところ、公安警察は事実上単体に近い固有の活動を幅広く行い、標的組織への潜入・情報工作など、警察の枠を超えた国内諜報活動を展開し、しかもそのコアな活動は厳重機密であり、都道府県警察本部長ですら把握していないというほどの隠密性が保持されているとされるので、公安警察は事実上、秘密政治警察の性格を強く帯びていると言える。
 その主任務は戦後の発足以来、反共親米体制の下で圧倒的に共産党その他のいわゆる左翼組織の監視・摘発にあったが、冷戦終結後の潮流の変化に応じ、より一般的な市民活動への監視・工作にも及んでいるとされ、一方で国際社会における「テロとの戦い」テーゼに歩調を合わせ、2004年には警察庁警備局に外事情報部(国際テロリズム対策室を包設)を新設するなど、外国人監視を担当する外事警察が増強されている。
 他方、内閣危機管理監や内閣情報官には、従前から警察庁内で刑事警察系統と並び最有力の人事系統とみなされてきた警備公安警察系統の要職を歴任した警察官僚が任命されることがほぼ慣例となっているほか、内閣官房副長官(事務系)にも、2012年から2020年まで二代の首相の下で異例の長期間にわたり警備公安警察系統の警察官僚出身者が勤続するなど、政府中枢への公安警察の人事的浸透が拡大している。
 こうして、公安警察の再編と拡大は、まさしく現代日本における影の警察国家化を象徴する事象と言える。

1‐1‐3:警視庁公安部の特殊性

 如上のとおり、日本の公安警察は警察庁警備局を指令センターとする都道府県警察担当部署の総体に過ぎず、言わば寄せ集め組織である点に活動の限界性もあるのであるが、警視庁は全国の警察本部の中で唯一独立した公安部を持つ点で特殊な地位にある。
 比較対象の外国の制度で見れば、フランスのパリ警視庁内の諜報指令部(Direction du Renseignement de la préfecture de police de Paris:DR-PP)に近いかもしれない。
 警視庁公安部はその内部部署も標的組織や監視対象別に細分化され、外国諜報機関の活動を監視する部署や固有の実力部隊に相当する公安機動捜査隊も備えるなど、首都警察の枠を超えた広汎性を持ち、警察庁の直轄実働部門に近い機能を持っている。
 ちなみに、警視庁公安部は約2000人とされる要員(所轄警察署の公安要員を含む)を擁し、公安警察の中で警視庁公安部がマンパワーの面でも特大級であることがわかる陣容となっている。

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近代革命の社会力学(連載第440回)

2022-06-09 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(5)キルギス革命
 旧ソ連邦構成諸国の中でも中央アジア諸国では独立後、各国共産党指導者がそのまま横滑りして大統領に納まり、1990年代を通じて個人崇拝型の独裁体制を固めたうえ、組織的な言論統制と政治的抑圧により反体制活動を効果的に封じていたため、少なくとも2000年前後の時点では革命の力学が作動する状況にはなかった。
 そうした中、キルギスではソ連邦解体前の1990年10月に実施された大統領選挙でキルギス共産党第一書記のアブサマト・マサリエフが数学者出身のアスカル・アカエフに敗れたため、周辺諸国とは異なる経過を辿ることになった。
 アカエフも元共産党員ではあったが、幹部職に就いたことがなく、ほぼアカデミズムに身を置いてきたという点で異例の人物であった。当初のアカエフは改革派と目され、独立直後のキルギスで広い支持を集めたが、1995年、2000年と連続当選し、長期政権化するにつれ、政権の汚職体質と強権指向が濃厚となった。
 そうした中、2005年の議会選挙を迎える。アカエフは同年の大統領選挙には立候補しない意向を表明していたが、子息への世襲の風説が流れる中、2003年の憲法改正により、2005年2月と3月に二回投票制で実施された議会選挙では、親族を含む大統領支持派が勝利したとされた。
 かねてより政権による集票操作の疑惑が絶えなかった中、この独立後の転換点となる議会選挙での政権有利の結果に対しては野党勢力が激しく反発し、野党の支持基盤がある南部では大統領の辞職を求める民衆の蜂起が相次いだ。
 特に南部の中心都市オシでは民衆が大会議(クリルタイ)を開催し、並行政府樹立を宣言、主要庁舎を占拠し、革命の様相を呈した。この動きは、ほどなくして大統領派が強い首都ビシュケクにも飛び火し、3月23日には民衆が政府庁舎など主要施設を占拠したため、アカエフ大統領はカザフスタンを経由して、モスクワへ亡命した。
 選挙前後の状況は前年のウクライナと類似しているが、アカエフは再選挙を約することなく、選挙管理委員会や最高裁判所に対し、不正の申し立てに関する詳細な調査を命じて時間稼ぎを図ったことが裏目に出て、革命への急速な進展を抑止することができなかった。
 アカエフの逃亡後、暫定政権を経て大統領に当選したのは、統一野党組織のキルギスタン人民運動を率いるクルマンベク・バキエフであった。ただし、彼はアカエフ政権の首相だった2002年、平和的デモに警察が発砲し多数の死傷者を出した事件で引責辞職に追い込まれた過去があり、真の意味で革命指導者とは言い難い人物であった。このことが、後に二次革命を惹起する伏線となる。
 ともあれ、2005年キルギス革命は民衆革命が東欧・コーカサスから中央アジアにも及び、まさにユーラシア大陸を横断したことを示したが、先行諸革命と同様、キルギスでも米国が反体制派に支援介入するなど、革命への外部干渉が見られた。
 米国は、当時継続中だったアフガニスタン戦争の作戦支援のため、2001年以来キルギスに米軍基地を設置していたため、アカエフ政権とは必ずしも敵対関係にはなかったが、不正選挙疑惑をめぐる騒擾の長期化を望まず、体制移行を支援したものと見られる。
 また、革命に参加した青年運動・ケルケル(キルギス語で善の再生と輝きの意)はセルビアのオトポ―ルの指南とソロス財団の支援を受けており、先行諸革命と同様、非暴力主義者と資本主義者の浸透が見られた。ただし、ケルケルの果たした役割は限定的であり、革命過程では暴動・略奪も見られ、平和革命とは言い難いものであった。

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続・持続可能的計画経済論(連載追補)

2022-06-08 | 〆続・持続可能的計画経済論

第三部 持続可能的計画経済への移行過程

第6章 経済移行計画

(5)告知と試行
 およそ経済体制の抜本的な移行は、生産・流通・消費の全サイクルに大きな影響を及ぼすため、経済的な混乱が生じやすい。一挙に移行するショック療法的な方法によった場合は特にそうであるが、漸進的な方法による場合でも、混乱は生じ得る。
 そうした移行期特有の混乱を完全に防ぐ技術的な手立ては存在しないが、混乱を可能な限り最小限にとどめるためには、移行の各段階において告知と試行の手順を踏むことである。
 告知と試行とは、移行過程におけるプロセスの全体像と個別の具体的な施策を解説し、情報開示を十全に行ったうえで、各施策を試験的に施行しながら、移行過程を進行させていくことである。
 中でも、情報開示の意味を持つ告知は、移行過程での混乱を最小限とするうえで重要な鍵となる。個人を含めた経済主体は、告知によって先行きを予測し、準備することができるからである。そうした意味で、告知されることはすべての経済主体にとっての権利であるとも言える。
 告知には大別して、各産業界向けのものと各世帯向けのものとがあるが、いずれも公報や公式ウェブサイト等に一括公開する告示では足りず、書面化して個別に配布する必要がある。それゆえの「告知」である。
 産業界向け告知は、持続可能的計画経済の仕組みと移行過程を詳細に解説した通達文書を通じて、各事業主体に対し、移行に向けた自発的な準備を促すものとする。
 各世帯向け告知は、持続可能的計画経済のもとでの生産と労働、生活全般の仕組みを平明に解説した冊子を全世帯に配布することにより周知徹底し、不安の解消を図るものとする。
 こうした告知を前提に移行過程における個別の施策が計画的に施行されていくが、この移行施策にも、机上演習にとどまる場合と実際に実施される場合、後者にも部分的に実施される場合と全面的に実施される場合とがある。
 その意味で、移行期における施策は試行的であるが、経過期間→初動期間→完成期という移行過程の三段階の中でも、過渡的な経過期間は試行性が最も強く、その後、初動期間から完成期にかけて、全面的な施行へ進んでいくイメージである。

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近代革命の社会力学(連載第439回)

2022-06-07 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(4)ウクライナ未遂革命

〈4‐2〉未遂革命と親欧派政権の誕生
 2004年10月‐11月の大統領選挙では、連続二期の任期切れとなるクチマ現職は立候補しない代わりに、事実上の後継者と目されたヴィクトル・ヤヌコーヴィチが与党系候補者として立候補した。これに対抗して、統一野党勢力からは前出のヴィクトル・ユシュチェンコが立ち、一騎討ちの構図となった。
 実際のところ、両候補者は共にクチマ政権の首相経験者であったから、04年選挙は10年続いてきたクチマ政権内の分裂を反映した対決構図であった点、前年のグルジア革命と同様、腐敗した体制自身が生み出した対立構造であった。
 しかし、ウクライナの場合、ユシュチェンコは反クチマというにとどまらず、元銀行家のエリートにして、西部に支持基盤を置く親欧州派、一方のヤヌコーヴィチは強盗前科のある労働者階級出自の立身者という異色経歴の人物にして、東部に支持基盤を置く親ロシア派という形で、地政学的にも階級的にも明瞭に対立する構図が作り出された。
 そうした先鋭な対立関係の中、ユシュチェンコは選挙直前、政権保安機関の関与が疑われる置毒の結果、緊急治療を受け、顔面に後遺症を発症するという陰謀にも見舞われる波乱に満ちた選挙となる。
 選挙は二回投票制で実施され、10月31日の第一回投票ではユシュチェンコがヤヌコーヴィチに僅差で勝利するも、過半数は取れず、11月21日の決選投票に進むが、当初の当局発表では、ヤヌコーヴィチが勝利したとされた。
 これに対して、野党勢力は政権側の集計操作があったとして、直後から大規模な抗議行動を展開した。この抗議行動にはセルビアのオトポールの指南を受けた青年運動ポラ!(ウクライナ語で時間だ!の意)も参加し、野党の枠組みを超えた国民的な蜂起に進展した。
 そうした中、ユシュチェンコ陣営が救国委員会の設置を発表し、全国ゼネストへの突入を示唆すると、状況は一挙に革命的様相を呈し始めた。ここで、意外なことに、最高裁判所が介入し、選挙の不正を認め無効としたうえで、再選挙を命じる決定を下した。
 この司法決定を両陣営が受け入れ、04年12月26日に再選挙が行われることになったため、革命のプロセスは中止される。再選挙の結果は一転してユシュチェンコの勝利となり、合法的な政権交代が実現した。
 この事変ではユシュチェンコ陣営支持者や抗議行動参加者がオレンジ色のリボンや旗などのシンボルを採用したことから、世上「オレンジ革命」の名で記憶されているが、実のところ、革命は中止され、再選挙の結果、平和的な政権交代が実現したので、厳密には未遂革命の事例である。ただし、失敗による未遂ではなく、成功的な未遂という点で異例な事象ではある。
 とはいえ、この事象は先行のセルビアやグルジアの革命と比べても、地政学的な親欧vs親露の対立関係が鮮明であったため、ロシアと欧州連合/米国の強い利害関心の的となり、それぞれが友好陣営に肩入れした点で、革命への外部干渉が際立っていた。
 結果として、親欧派のユシュチェンコが勝利し、親欧政権が発足することになるが、親露勢力及び背後のロシアはこの結果には大いに不満であり、以後、今日にまで及ぶ親欧派と親露派の社会的分断と大国の干渉、最終的にはロシアによる〝特別軍事作戦〟につながる苦難の時代の始まりともなる。

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近代革命の社会力学(連載第438回)

2022-06-06 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(4)ウクライナ未遂革命

〈4‐1〉独立から地政学的分断へ
 ソヴィエト連邦解体革命に際して主要な役割を果たしたウクライナは独立以来、当初は脱ロシア路線を基調とし、民主化も比較的順調に見えた。独立初代のレオニード・クラフチュク大統領は経済改革に失敗し、1994年の大統領選挙では自身の政権で首相を務めたレオニード・クチマに敗れたが、クチマは親欧米路線を基調に西側からの援助を引き出すことで市場経済化を推進していった。
 しかし、その過程で新興財閥との癒着を深め、同時期のロシアやグルジアとも同類の構造汚職体制へ向かった。この傾向は1999年の大統領選挙でクチマが再選を果たすと、一層明瞭なものとなった。このことは、西側援助国の不信とともに、国内的にも反クチマ勢力の結集を助長した。
 そうした中、政権の汚職を追及していたグルジア出身のジャーナリスト、ゲオルギ・ゴンガゼが2000年に誘拐・殺害された事件にクチマ自身が関与していた疑いを示す録音テープが暴露されるスキャンダルがあった。このスキャンダルは、独立後のウクライナにとって大きな転機となる出来事であった。
 国内的には、グルジアと同様、構造汚職批判からクチマ大統領自身の退陣を求める不服従運動が広がり、2001年には、クチマ政権下で首相を罷免されたヴィクトル・ユシュチェンコが統一野党組織として「我がウクライナ‐人民自衛ブロック」を結成する。この動きは、2004年の民衆蜂起の伏線となる。
 一方、スキャンダルを機に西側の批判も強まる中、クチマは外交的基軸を西側からロシアへ移し替える。クチマ第二期はロシアのプーチン政権の登場と重なっており、クチマはロシア政権との関わりを深めることで政権維持の担保とすることを図ったと見られる。このような日和見外交は、それまで親欧米路線を基調に安定していたウクライナ社会に親ロシア派と親欧州派の分断の種をまくことになった。
 元来、ロシアと中欧の緩衝地帯に位置するウクライナでは、独立以来、親露派の多い東部及びクリミア半島と親欧派の多い西部で潜在的な分断状況が見られたが、そうした地政学的分断は2000年代初頭の段階ではまだ必ずしも顕著化しておらず、さしあたっては、強権化するクチマ政権と支持を広げる野党勢力の対決構図が2004年の次期大統領選挙に向けて先鋭化していく。

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続・持続可能的計画経済論(連載第33回)

2022-06-05 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第6章 経済移行計画

(4)「貨幣観念」からの解放
 貨幣経済を廃する持続可能的計画経済への移行過程にあっては、円滑な移行を担保する技術的な諸政策も重要であるが、人々がほとんど無意識のうちに前提としている貨幣という観念から意識的に解放されるというある種の意識革命を促進することも不可欠である。
 現代世界では、あらゆる物やサービスを貨幣と交換で取得するという貨幣交換システムが強固に定着しており、人々は呼吸する空気とほぼ同等レベルで貨幣を無意識の前提としているため、貨幣交換に基づかず、無償または物々交換で回っていく経済システムを想定することができなくなっており、そうした提案を聞いても一笑に付するであろう。
 その点、生物としてのヒトが誕生してからいかにして貨幣交換の観念を習得していくのかは十分解明されておらず、誕生後の母語言語習得のプロセスと同様に謎である。家庭や学校で系統的に貨幣教育を実施しているといった事実はないから、母語言語と同レベルの無意識的な習得過程を経て、ある程度の年齢に達すれば自然に簡単な買い物はできるようになっているというのが大半のヒトの成長過程である。
 そのようにして自然に習得された貨幣観念から人々を解放することは容易でなく、貨幣観念の習得は無意識的に行われるとしても、それからの解放は逆に意識的かつ習練的に行われる必要がある。その過程や方法の考察は、これまでのところほぼ未開拓の行動経済学的な課題である。
 ここでも、ショック療法的に貨幣経済の廃止を即行する策を採るならば、一部の人々は反動から独り占めを狙った大量取得に走り、深刻な物資不足に陥る恐れがある。人間の物欲は貨幣経済下では貨幣の持ち高によって不平等に規制されているが、非貨幣経済下では別のより公平な方法で規制される必要がある。
 物欲が後天的に習得された欲望なのか、生物としてのヒトが生得的に備える欲求なのかは別としても、そうした物欲コントロールも、持続可能的計画経済にあってはその成否に直接関わる重要な課題であり、貨幣観念からの解放と表裏一体の行動経済学的な課題となる。
 それらの課題を負いつつ、貨幣観念からの解放も経済移行計画に組み込んで進めていく必要があるが、大枠として、出発点は情報提供と啓発、次いで限定的な非貨幣経済の試行、最終的には非貨幣経済の完全施行という段階を経過することが最も円滑な移行を保証することになるだろう(詳細後述)。

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近代革命の社会力学(連載第437回)

2022-06-03 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(3)グルジア革命

〈3‐2〉民衆革命への力学
 シェワルナゼ体制の与党は1993年以来、中道系のグルジア市民同盟であった。市民同盟は当初こそ支持が固く、後に革命を担うことになる若手の政治家も多く参加していた。その結果、2000年大統領選では、80パーセントを超える得票でシェワルナゼが圧勝、再選を果たした。
 その点では、同年の革命で失権したセルビアのミロシェヴィチとは対照的に順調で、長期体制となる気配も見えたが、皮肉なことに、この再選成功がかえって革命へのステップとなる。
 再選後、構造汚職への批判から離党者が続出し、2001年には後に革命の先導者、さらに革命後最初の大統領となるミヘイル・サアカシュヴィリ法相が離党し、統一国民運動を結成した。サアカシュヴィリはグルジア独立後にアメリカで法曹教育を受けた弁護士で、新しいタイプの若手指導者として台頭していた人物である。
 これとは別に、西側諸国からの資金援助を得たNGOの結成も相次いでいた。また、アメリカの投資家ジョージ・ソロスのオープン・ソサエティ研究所(現財団)はグルジアの学生活動家を支援し、セルビアのオトポールから革命指南を受けさせるなど、資本主義者によるオルグ活動も見られた。オトポールの指南を受けた青年らは、同種組織としてクマラ(グルジア語で十分の意)を結成し、反体制活動を展開した。
 こうして、グルジアにおいても、セルビア革命を担ったオトポールとのつながり、それとも関連して、西側からのソフトパワーを用いた体制転換への関与が見られたことはセルビア革命と類似する。
 ここには、当時プーチン政権の登場によるロシアの再興を睨み、西側がグルジアをはじめとする旧ソ連圏のカフカ―ス諸国を親西側圏に引き入れ、かつ新たな投資先として確保するうえでも、旧ソ連の高官出自で構造汚職を抱えるシェワルナゼ体制の排除を種々なチャンネルを用いて画策していたことが窺える。
 しかし、セルビアのミロシェヴィチ体制とは異なり、シェワルナゼ体制は必ずしも抑圧的な独裁体制ではなかったため、革命への展望はさしあたりなさそうに見えたところ、事態急転の契機となったのは、2003年11月の議会選挙である。
 この選挙では当初、与党グルジア市民同盟の勝利が発表されたが、直後から集計操作疑惑が広がる中、抗議デモが全国に拡大した。実際のところ、不正が行われたかどうかは不明であったが、こうした選挙不正疑惑はシェワルナゼ体制に対する国民の鬱積した不信感の表出でもあった。
 サアカシュヴィリらの野党勢力は選挙結果に基づき招集された新議会の無効性を訴え、大統領演説を妨害する行動に出たため、シェワルナゼ大統領は非常事態宣言を発して対抗するが、軍は政権支持を拒否した。その後、ロシアの仲介による野党指導者との会談を経て、シェワルナゼは辞職を表明、暫定政権が発足することとなった。
 こうして、シェワルナゼ体制はあっけなく終焉した。グルジア革命の場合は、セルビア革命と異なり、体制離反者が革命立役者となったことが瓦解の要因であった。その意味では体制自身が革命の母体であり、自身の構造汚職が生み出した「身から出た錆」の革命事象であった。

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近代革命の社会力学(連載第436回)

2022-06-02 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(3)グルジア革命

〈3‐1〉構造汚職と政情不安
 2000年セルビア革命は、2003年以降、旧ソヴィエト連邦からの独立国へと波及していくが、その端緒はコーカサス地方のグルジア(現ジョージア:以下では、革命当時の旧呼称グルジアで表記)であった。
 グルジアは、旧ソヴィエト連邦から1991年に独立宣言した後、文学者で旧ソ連時代の人権活動家として投獄も経験したズヴィアド・ガムサフルディアが初代大統領となった。彼はソ連解体革命の渦中、グルジアの独立運動を率い、国民的な敬意を持たれていたため、初代大統領への就任はさしあたり順当と言えた。
 ところが、いざ権力の座に就くや、ガムサフルディアは独裁化し、自身の人権活動家としての過去を忘却したかのように深刻な人権侵害を犯すようになった。またグルジア民族主義を強調し、少数民族を圧迫したことで、難民を発生させ、南オセチアやアブハジアなどの少数民族の独立運動を刺激することにもなった。
 野党勢力の批判が強まる中、ガムサフルディア自身が独立運動中にグルジア独自の軍組織として創設に関わった国家警備隊がクーデター決起し、1992年1月にはガムサフルディアは亡命に追い込まれた。
 こうして、独立最初期のグルジアは独裁体制とその短期間での崩壊という混乱に始まることとなった。クーデター後に政権を掌握した軍事評議会は、国家評議会と改称したうえ、議長にグルジア出身の元ソ連外相エドゥアルド・シェワルナゼを招聘した。
 シェワルナゼはソ連のゴルバチョフ政権の「新思考外交」を担う外相として、冷戦終結の実務を担当し、西側で高い評価を得た人物であったが、遡ること1970年代にはグルジア共和国共産党第一書記として、グルジアにおける事実上のトップ職を務めたことがあり、ソ連解体を挟んで二度目のトップ職という異例の履歴となった。
 シェワルナゼは民族主義的な独裁者だったガムサフルディアとは異なり、民族主義を抑制し、政治手法も独裁的ではなかったが、暫定政権の1992年から最高会議議長、95年の大統領就任を経て政権が長期化するにつれ、汚職体質となった。これはシェワルナゼがかつて共産党第一書記として、汚職撲滅で名を上げた経歴からすれば、皮肉な変節であった。
 他方で、旧ガムサフルディア支持勢力の抵抗や南オセチアやアブハジアの分離独立運動、マフィアの台頭にもさらされ、シェワルナゼを狙った暗殺未遂事件がたびたび発生するなど、政情不安も恒常化するとともに、治安の悪化も顕著化した。
 他方、ソ連解体に伴う市場経済化は同時期のロシアのようなショック療法ではなく、かつての盟友ゴルバチョフのそれに似て漸進的な手法によっていたため、比較的安定はしていたものの、構造汚職が経済を蝕んでいた。

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