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近代革命の社会力学(連載第438回)

2022-06-06 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(4)ウクライナ未遂革命

〈4‐1〉独立から地政学的分断へ
 ソヴィエト連邦解体革命に際して主要な役割を果たしたウクライナは独立以来、当初は脱ロシア路線を基調とし、民主化も比較的順調に見えた。独立初代のレオニード・クラフチュク大統領は経済改革に失敗し、1994年の大統領選挙では自身の政権で首相を務めたレオニード・クチマに敗れたが、クチマは親欧米路線を基調に西側からの援助を引き出すことで市場経済化を推進していった。
 しかし、その過程で新興財閥との癒着を深め、同時期のロシアやグルジアとも同類の構造汚職体制へ向かった。この傾向は1999年の大統領選挙でクチマが再選を果たすと、一層明瞭なものとなった。このことは、西側援助国の不信とともに、国内的にも反クチマ勢力の結集を助長した。
 そうした中、政権の汚職を追及していたグルジア出身のジャーナリスト、ゲオルギ・ゴンガゼが2000年に誘拐・殺害された事件にクチマ自身が関与していた疑いを示す録音テープが暴露されるスキャンダルがあった。このスキャンダルは、独立後のウクライナにとって大きな転機となる出来事であった。
 国内的には、グルジアと同様、構造汚職批判からクチマ大統領自身の退陣を求める不服従運動が広がり、2001年には、クチマ政権下で首相を罷免されたヴィクトル・ユシュチェンコが統一野党組織として「我がウクライナ‐人民自衛ブロック」を結成する。この動きは、2004年の民衆蜂起の伏線となる。
 一方、スキャンダルを機に西側の批判も強まる中、クチマは外交的基軸を西側からロシアへ移し替える。クチマ第二期はロシアのプーチン政権の登場と重なっており、クチマはロシア政権との関わりを深めることで政権維持の担保とすることを図ったと見られる。このような日和見外交は、それまで親欧米路線を基調に安定していたウクライナ社会に親ロシア派と親欧州派の分断の種をまくことになった。
 元来、ロシアと中欧の緩衝地帯に位置するウクライナでは、独立以来、親露派の多い東部及びクリミア半島と親欧派の多い西部で潜在的な分断状況が見られたが、そうした地政学的分断は2000年代初頭の段階ではまだ必ずしも顕著化しておらず、さしあたっては、強権化するクチマ政権と支持を広げる野党勢力の対決構図が2004年の次期大統領選挙に向けて先鋭化していく。

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