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近代革命の社会力学(連載第440回)

2022-06-09 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(5)キルギス革命
 旧ソ連邦構成諸国の中でも中央アジア諸国では独立後、各国共産党指導者がそのまま横滑りして大統領に納まり、1990年代を通じて個人崇拝型の独裁体制を固めたうえ、組織的な言論統制と政治的抑圧により反体制活動を効果的に封じていたため、少なくとも2000年前後の時点では革命の力学が作動する状況にはなかった。
 そうした中、キルギスではソ連邦解体前の1990年10月に実施された大統領選挙でキルギス共産党第一書記のアブサマト・マサリエフが数学者出身のアスカル・アカエフに敗れたため、周辺諸国とは異なる経過を辿ることになった。
 アカエフも元共産党員ではあったが、幹部職に就いたことがなく、ほぼアカデミズムに身を置いてきたという点で異例の人物であった。当初のアカエフは改革派と目され、独立直後のキルギスで広い支持を集めたが、1995年、2000年と連続当選し、長期政権化するにつれ、政権の汚職体質と強権指向が濃厚となった。
 そうした中、2005年の議会選挙を迎える。アカエフは同年の大統領選挙には立候補しない意向を表明していたが、子息への世襲の風説が流れる中、2003年の憲法改正により、2005年2月と3月に二回投票制で実施された議会選挙では、親族を含む大統領支持派が勝利したとされた。
 かねてより政権による集票操作の疑惑が絶えなかった中、この独立後の転換点となる議会選挙での政権有利の結果に対しては野党勢力が激しく反発し、野党の支持基盤がある南部では大統領の辞職を求める民衆の蜂起が相次いだ。
 特に南部の中心都市オシでは民衆が大会議(クリルタイ)を開催し、並行政府樹立を宣言、主要庁舎を占拠し、革命の様相を呈した。この動きは、ほどなくして大統領派が強い首都ビシュケクにも飛び火し、3月23日には民衆が政府庁舎など主要施設を占拠したため、アカエフ大統領はカザフスタンを経由して、モスクワへ亡命した。
 選挙前後の状況は前年のウクライナと類似しているが、アカエフは再選挙を約することなく、選挙管理委員会や最高裁判所に対し、不正の申し立てに関する詳細な調査を命じて時間稼ぎを図ったことが裏目に出て、革命への急速な進展を抑止することができなかった。
 アカエフの逃亡後、暫定政権を経て大統領に当選したのは、統一野党組織のキルギスタン人民運動を率いるクルマンベク・バキエフであった。ただし、彼はアカエフ政権の首相だった2002年、平和的デモに警察が発砲し多数の死傷者を出した事件で引責辞職に追い込まれた過去があり、真の意味で革命指導者とは言い難い人物であった。このことが、後に二次革命を惹起する伏線となる。
 ともあれ、2005年キルギス革命は民衆革命が東欧・コーカサスから中央アジアにも及び、まさにユーラシア大陸を横断したことを示したが、先行諸革命と同様、キルギスでも米国が反体制派に支援介入するなど、革命への外部干渉が見られた。
 米国は、当時継続中だったアフガニスタン戦争の作戦支援のため、2001年以来キルギスに米軍基地を設置していたため、アカエフ政権とは必ずしも敵対関係にはなかったが、不正選挙疑惑をめぐる騒擾の長期化を望まず、体制移行を支援したものと見られる。
 また、革命に参加した青年運動・ケルケル(キルギス語で善の再生と輝きの意)はセルビアのオトポ―ルの指南とソロス財団の支援を受けており、先行諸革命と同様、非暴力主義者と資本主義者の浸透が見られた。ただし、ケルケルの果たした役割は限定的であり、革命過程では暴動・略奪も見られ、平和革命とは言い難いものであった。

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