ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第424回)

2022-05-09 | 〆近代革命の社会力学

六十 メキシコ・サパティスタ革命

(3)非政党型革命組織と武装蜂起
 サパティスタ革命を主導したサパティスタ民族解放軍(EZLN)の源流は、1969年に結成されたマルクス主義・毛沢東主義系の武装革命組織・民族解放軍(FLN)にある。この組織は結成前年に首都メキシコシティで発生した抗議デモ隊の学生・市民に対する発砲・虐殺事件を契機に主として学生を主体に結成された武装組織であった。
 FLNは主としてチアパス州で活動したが、政府主導の「汚い戦争」下での掃討作戦により1974年には解散に追い込まれた。「汚い戦争」が1980年代初頭に一段落した後の1983年、FLN残党によって改めて結成されたのがEZLNである。
 当初は都市部出身の非先住民を中心に結成されたEZLNであったが、「汚い戦争」がそのピークを過ぎた弾圧緩和状況を利用しつつ、次第にチアパス州先住民の間に浸透していき、先住民系の武装ゲリラ組織として育っていく。
 そのイデオロギー面での特徴は前身のFLNのようなマルクス主義を離れ、サパタのアナーキズム、先住民解放論及び反グルーバル資本主義に立脚していることである。このようなイデオロギー的選択は、20世紀メキシコ革命の源流に立ち返るとともに、冷戦終結後の世界情勢にも適応したものと言える。
 一方、組織編制上の特徴としては、政党化されず、中央指導部を持たないことである。作戦指揮は先住民革命秘密委員会‐EZLN総司令部が執るが、事実上の理念的指導者と目されるマルコスまたはガレアーノ[作戦コードネーム]も「反乱副司令官」の肩書でスポークスマンとしての役割を担うにとどまるとされることである。
 また、作戦指揮部の名称からも、メンバーは先住民(ガレアーノ副司令官は例外的に非先住民)で占められており、ガレアーノ副司令官と並んで有力メンバーと見られたラモーナ司令官[2006年死去]をはじめ、女性の有力メンバーも多く、闘争的なフェミニズムもEZLNの特徴と言える。
 このように伝統的な革命組織とは異なる性格を持つEZLNは辺地のチアパス州に限局された活動を展開したことも功を奏し、政府の弾圧を逃れて戦闘力を拡大し、北米自由貿易協定の発効日である1994年1月1日を期して武装蜂起した。
 蜂起は3000人規模のゲリラ兵力によって実行されたが、不意を突いた奇襲作戦により、チアパス州の多くの町を占領することに成功した。とはいえ、貧弱な武装組織であり、政府軍の迅速な反撃行動により、一週間程度で州内の密林地帯へ撃退され、1月12日には政府から停戦の申し入れがなされた。
 しかし、EZLN側はこれを拒否したため、翌95年、政府は改めてEZLNに対する司法・軍事両面での検挙・壊滅作戦に乗り出すも、EZLNへの共感が他地域や国際的にも拡散していく情勢の中、時のPRI政権は方針を転換し、96年2月にチアパス州の町サンアンドレス・ラランサル‎にて和平合意の締結に至った(サンアンドレス合意)。

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近代科学の政治経済史(連載第9回)

2022-05-08 | 〆近代科学の政治経済史

二 御用学術としての近代科学(続き)

プロイセン科学アカデミー
 ドイツ語圏において御用学術としての科学を象徴する組織は、1700年にブランデンブルク選帝侯立科学協会の名称で設立されたプロイセン王立科学協会である。この組織は当時のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が哲学者で数学者でもあったゴットフリート・ライプニッツの提案を容れて設立したものである。
 ライプニッツ自身は科学者というよりは総合的知識人といったタイプの人物であったが、先行の英国王立学会やフランス科学アカデミーに触発され、招聘されたベルリンで、同種のアカデミーの設立をブランデンブルク選帝侯に進言したのであった。そして、時の選帝侯フリードリヒ3世が1701年にプロイセン王フリードリヒ1世となったことで、プロイセンの御用学術機関に格上げされた。
 ただし、この機関の設置に際しては、フリードリヒ1世自身よりも二番目の妃であったゾフィー・シャルロッテの影響が強かったと見られる。好学の彼女はベルリンにサロンを開き、多くの学者や芸術者を集めており、ライプニッツとも文通関係にあった。
 プロイセン王立科学アカデミーは自然科学のみならず、人文科学もカバーしていた点で、英国王立学会やフランス科学アカデミーより幅が広く、1710年以降、自然科学部門と人文科学部門とに二分された。これは、学術の文理分割、とりわけ自然哲学からの自然科学の分離の先駆けでもあった。
 プロイセン科学アカデミーは第3代プロイセン王で啓蒙専制君主であったフリードリヒ3世の治下、未解決の科学的問題の解決に対して金銭的報酬が支払われることとなり、御用研究機関としての性格を強め、天文台や解剖施設、医学研究施設や植物園、実験施設などの附属組織が順次整備されていき、本格的な王立研究機関となった。

ロシア科学アカデミー
 同様の御用機関は、ロシアでも1725年に設立されている。設立者が当時のピョートル1世(大帝)であったことは不思議でない。彼は言わばロシアの啓蒙専制君主として、ロシアの西欧的近代化を邁進しようとしていたからである。ただし、ピョートルは1725年の開設を目前に死去した。
 開設当時のロシアの科学界は全く未発達であり、当初のアカデミーは数学者・物理学者のレオンハルト・オイラーや、ダニエル・ベルヌーイ、発生学者のカスパー・ヴォルフといった主としてドイツ語圏のお雇い外国人に依存していた。
 しかも、開設を前にピョートルが死去したこともあって、アカデミーは発展することなく、次第に形骸化したが、この状況を変えたのが女帝エカチェリーナ2世である。完全なドイツ人であった彼女はロシアの文化的発展に注力し、その一環として、停滞していた科学アカデミーの院長に側近女官エカチェリーナ・ダーシュコワ公爵夫人を任命した。
 ダーシュコワは科学者ではないが、高い教養を備えた才女として知られ、同様に教養人であったエカチェリーナ女帝の議論相手としても最側近者となっていたことから、女帝はアカデミーの再建を彼女に託したのであった。
 1783年から96年まで院長を務めたダーシュコワは手腕を発揮し、論文集や教科書の出版事業で得た収益を活用して基金を設け、数学や物理学、化学等の公開講座を開設、下級貴族子弟らへの教育・啓蒙活動を行った。こうして、ロシア科学アカデミーは女帝と女官という二人の女性の手により再興されたことは注目に値する。

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近代革命の社会力学(連載第423回)

2022-05-06 | 〆近代革命の社会力学

六十 メキシコ・サパティスタ革命

(2)メキシコ革命理念の後退
 20世紀初頭の革命から80年近い年月を経た20世紀末のメキシコで、再びサパタの名を冠する革命が発生した背景として、冷戦終結後、革命理念の大きな後退が見られたことがある。
 メキシコでは、1929年以降、革命によって誕生した制度的革命党(PRI)による支配の時代に入るが、この間、メキシコ革命はまさに党名通り、制度化され、動的性格を喪失していった。言わば、革命の物象化が長期間をかけて進行していったのである。
 PRIは労働組合や農民団体を傘下に収めた社会主義的な傾向を帯びつつも、社会各層に支持基盤を持つ包括政党として大統領及び議会の各選挙で常勝し、1929年の結党以来、連続して政権与党の座にあった。この体制はソ連型の一党支配とは異なるものの、複数政党制を形骸化させる一党集中体制であった。
 このPRI体制下で最も劣勢に置かれたのは、地方農民層を形成する先住民であった。20世紀初頭のメキシコ革命ではエミリアーノ・サパタ率いる農民革命運動の影響が強く、その理念は1917年の革命憲法(現メキシコ憲法)にも色濃く反映されながら、結局はサパタの暗殺により、農民革命としての要素は希釈化されていった。こうして、農民≒先住民問題はメキシコ革命の積み残された課題となった。
 そこへ、冷戦終結、ソヴィエト連邦解体後のイデオロギー的な激変がメキシコにも及び、大土地所有制を廃して農民による共同用益制(エヒード制)を定めた革命憲法の目玉条項(第27条)が改正され、エヒードの私有地への転換と売却が可能とされたことは、革命理念の大きな後退であった。
 時のカルロス・サリナス大統領が率いたPRI政権は、PRI本来の社会主義的傾向を清算し、いわゆる新自由主義イデオロギーへの適応化を目指しており、それは通商政策においても、北米自由貿易協定(NAFTA)への参加という形で表れていた。実は、先の憲法27条の廃止もNAFTAにとって障害となり得る土地規制の撤廃という観点から実行されたものであった。
 この政策的大転換によって、先住民層が農地の喪失と海外からの安価な農産品の流入という二重の苦境に直面する恐れが現実化してきたことは、新たな革命への強い動因となり、NAFTA発効日である1994年1月1日という象徴的な日付の武装蜂起へと至ったのである。
 とはいえ、PRI体制は1960年代から80年代初頭にかけて、米国の支援の下、急進的な反体制ゲリラ組織に対する弾圧的な武力掃討作戦(いわゆる「汚い戦争」)を展開し、有力な各組織を壊滅・弱体化させたので、EZLNによる1994年の武装蜂起は不意を突かれたものであった。
 しかし、EZLN拠点のチアパス州は先住民貧農の比率が高いうえ、PRI末端の自警団による人権侵害の多発など、革命の素地は存在していたのであり、蜂起は偶発的な暴動事件ではなかった。

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近代革命の社会力学(連載第422回)

2022-05-05 | 〆近代革命の社会力学

六十 メキシコ・サパティスタ革命

(1)概観
 1990年ネパール民主化革命は、農民層が時代潮流に逆行して共産党(毛沢東主義派)の台頭をもたらしたことを見たが、メキシコでは農民層が既成イデオロギーを超えた新しい形の革命を編み出した。それが、1994年1月1日の武装蜂起を起点とするサパティスタ革命である。
 この革命は、メキシコで最貧レベルにある南東部チアパス州の先住民グループが中心となって結成した農民革命組織サパティスタ民族解放軍(EZLN)が主導したものであり、政府軍との一時的な武力衝突を経て、チアパス州の一部地域におけるEZLNによる反独立状態の自治域が黙認される形で、持続的な成功を収めている。
 サパティスタの名は20世紀初頭のメキシコ革命で主要な役割を果たしながら暗殺されたエミリアーノ・サパタにちなむもので、その基本理念はサパタ流のアナーキスト系社会主義にあり、自治運営にも通常の行政機構によらない直接民主主義的なアナーキズムの影響が見て取れる。
 そうした点で、この革命は失敗に終わった1930年代のスペイン革命以来のアナーキスト系革命の事例とも言えるが、EZLN自身はそうした伝統的なイデオロギー分類を拒み、資本主義的グローバリゼーションと対峙する先住民族農民の権利擁護を活動の目標に定めている。
 そのため、EZLNは伝統的な政党とは異なる組織構造を採用し、垂直的な序列型指導部を有しない。そのうえ、事実上の自治域においても全員参加型の議決機関を擁し、労働者協同組合や家族農場を基軸とする経済運営が行われている。
 現時点で、EZLNの自治はチアパス州の一部に限局されており、メキシコ全土への拡大は見られないが、他地域にも支援組織があり、国際的な連帯活動も行われている。このように伝統的な革命運動とは異なり、しなやかな連携関係を通じたネットワーク型の闘争は欧米からも注目されている。
 もっとも、その独特な方法論は現在のところ、地域を超えた広がりを見せているとは言えず、あたかも日本の北陸一向宗革命(一向一揆)のごとく、地方革命の域を出ていないが、現時点で最も持続的な成功を収めている新型の革命事象として、その力学を見ていくことにする。

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近代革命の社会力学(連載第421回)

2022-05-03 | 〆近代革命の社会力学

五十九 ネパール民主化革命

(4)共産党の統合化と毛沢東主義派の台頭
 1990年のネパール民主化革命で特徴的なことは、これを通じて共産党が大きく台頭してきたことである。同時期には世界の共産党支配体制が揺らぎ、次々と民衆革命により打倒されていた中でのこの逆行事象は興味深いことである。
 とはいえ、1990年革命前の時点で、ネパールの共産党は10を超える分派が各々独立した党を形成しており、民主化革命を始動したネパール会議派からの共闘要請に応じ、統一左翼戦線を結成したのは、ネパール共産党マルクス・レーニン主義派を筆頭とする7派にとどまった。
 マルクス‐レーニン主義と言えば、まさにソ連をはじめ、共産党支配体制諸国の公式イデオロギーであり、それこそが諸国では革命の憎き標的であったが、元来は武装革命を目指していたネパール共産党マルクス・レーニン主義派は一足先に1986年以降、党自身が複数政党民主主義を承認していたことで、民主化革命の当事者となり得たのであった。
 複雑なことに、ネパール共産党諸派には、他により穏健なネパール共産党マルクス主義派を称するグループがあり、これも統一左翼戦線に参加し、同戦線議長となった女性指導者のサハーナ・プラダンもこのグループの出自であった。
 このように、ネパール共産党は多岐に分裂しながら台頭してきたが、民主化革命の成功は党の統合へ向けた新たな潮流を作り出した。革命翌年の1991年には、マルクス‐レーニン主義派とマルクス主義派が合同し、ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(統一共産党)が結党された。
 この統合潮流は、1994年に至り、統一共産党党首マン・モハン・アディカリが首相に選出されたことにより、立憲君主制下での共産党政権という世界歴史上も(おそらく)前例のない事例を生むことになった。
 このように、民主化革命後の統一共産党は君主制と共存することで政権獲得にまで進んだわけであるが、このことはネパール会議派を中心とする非共産主義勢力の警戒を呼び、95年には内閣不信任案が成立、アディカリ共産党政権は短期で瓦解した。
 他方、統一共産党に合流しなかった共産主義者の間では民主化革命が積み残した君主制や大土地所有制などの諸問題の課題に対し、毛沢東主義を掲げ、農民層の支持を背景に農村を根拠地とする武装革命路線に進む動きが生じ、1994年に共産党毛沢東主義派中央が結党された。
 毛沢東主義派は1996年以降、王室特権の廃止やカースト制廃止、ヒンドゥー国教の廃止など急進的な要求を掲げ、「人民戦争」と銘打った武装闘争を開始した。その間、毛沢東主義派は山間農村に政府支配の及ばない解放区を次々と設定し、21世紀初頭までには国土の半分以上を実効支配するに至った。
 こうした「人民戦争」に対して政府は武力掃討作戦で臨んだため、ネパールは2006年まで内戦状態に置かれることとなった。内戦は生まれたばかりの立憲君主制を揺さぶり、再び専制君主制への反動とそれに対する革命を惹起することになる。

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近代革命の社会力学(連載第420回)

2022-05-02 | 〆近代革命の社会力学

五十九 ネパール民主化革命

(3)革命運動の始動と展開

〈3‐1〉政党決起の初動的失敗
 長く低調だったネパールの専制君主制に対する民主化運動に転機が訪れたのは、1990年(以下、断りない限り日付は1990年度)のことであった。その決定的な動因を特定することは難しいが、この時期、中・東欧での連続革命が進行中であったことが外部要因として刺激となったことは確かである。
 最初に行動を起こしたのは、1951年立憲革命でも主導的役割を果たしたネパール会議派(以下、会議派)であった。ベテラン指導者ガネーシュ・マン・シンハに率いられた会議派は分裂状態の共産党に連携を呼びかけ、これに応じた共産党各派が統一左翼戦線を結成した。
 こうした非共産主義政党と共産党の共闘関係も稀有であるが、統一左翼戦線議長に女性のサハナ・プラダンが就いた点でも、稀有な運動となった。この民主化運動連合が、1951年立憲革命でラナ家独裁が終焉した記念日である2月18日を革命始動日として、運動を開始した。
 とはいえ、政党活動は全面禁止され、監視下にあったため、国王政府当局の動きも素早く、焦点の2月18日を前に、プラダンやシンハら政党指導者を一斉に拘束したうえ、革命運動の潜勢力となる学生の大量検挙も断行した。
 これに対して、警察との流血衝突を伴う学生や一部市民の抗議デモや専門職業人のストライキ、文学者の抗議活動なども起きたが散発的であり、当局による迅速な大量予防拘束の効果は大きく、3月にかけて民主化運動はいったん沈静化に向かった。

〈3‐2〉民衆蜂起への急転
 収束しかけた運動が再燃するのは、3月27日に東部の都市で反体制派学生が体制支持派学生に刺殺されるという小さな事件が契機であった。これは個人間のトラブルに近い事案でありながら、学生の間で新たな抗議活動の動因となり、全国規模での学生蜂起につながった。
 これを契機に政党連合が再び動き出し、夜間一斉消灯というユニークな抗議行動を開始した。この誰でも簡単に実行できる抗議行動は、一般市民にも浸透した。一方、一部地方都市では街頭デモも隆起し、バリケードで封鎖した解放区が設定されるなど、にわかに革命的進展が見られた。
 こうした民衆蜂起は公務員にも波及し、4月に入ると、通常は禁断である公務員のゼネストという稀有の事態に発展し、政府機能が麻痺し始めた。ここに至り、ようやくビレンドラ国王も重い腰を上げ、民主化に関する諮問を行う。
 その結果、内閣総辞職と憲法改正を軸とする国王声明が発せられ、新たな暫定内閣と政党の間での憲法改正に向けた協議が開始された。とはいえ、国王政府側は複数政党制の復活に同意しつつも、パンチャーヤト制の廃止は拒否していた。
 このような守旧的な政府に対し、パンチャーヤト制の廃止を求める1万人規模の抗議デモが首都カトマンズで発生すると、暫定内閣は総辞職し、国王もついにパンチャーヤト制の廃止に同意した。これが4月16日のことであるから、革命始動日の2月18日から起算すれば、この間、2か月余りでの急転であった。
 この後、会議派を軸に、事実上の共産党である統一左翼戦線やその他の民主化運動指導者も参加した挙国一致内閣のもと、11月に立憲君主制を基調とする新憲法が制定され、これに基づく翌1991年5月の総選挙では会議派が過半数を占め、正式に同党主導の新政権が発足した。

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