ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第434回)

2022-05-30 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(2)セルビア革命

〈2‐2〉民衆革命への力学
 新ユーゴ時代のセルビアは、ミロシェヴィチが旧共産主義者同盟の組織をもとに再編した左派政党・セルビア社会党が優勢であったが、ミロシェヴィチの独裁的手法への批判の高まりとともに、同党は複数政党制のもと、次第に党勢が低下していた。
 これに対して、民主化を求める反体制運動も90年代を通じて隆起していたが、ミロシェヴィチ政権は治安機関を用いて抑圧していた。しかし、96年地方選挙での与党による集計操作疑惑を機に、野党勢力や大学生による大規模な抗議行動のうねりが起きた。
 これは民衆革命の最初の予兆と言えたが、この時点でのミロシェヴィチ政権はなお強力で、大統領夫人ミリャナ・マルコヴィチが結党したユーゴスラヴィア左翼などと連合するとともに、97年の総選挙で躍進した極右民族主義のセルビア急進党を連立に引き入れて権力の維持を図った。
 一方、経済面では、旧ユーゴの解体以来、自主管理社会主義に基づく経済システムの崩壊から生産力が低下していたところへ、コソヴォ紛争の激化の影響を受け、生産力の一層の低下と国民生活の悪化を招いていた。
 コソヴォ紛争は本来、セルビア国内の地方的な民族紛争であったが、90年代末の世界で最も大きな国際的な関心事となり、セルビアの強硬姿勢は西側諸国の介入を招くこととなった。特に、冷戦終結後、その存在理由が問われていた北大西洋条約機構(NATO)にとって、これは新たな存在理由の発見機会でもあった。
 NATOは「人道的介入」を名目に、1999年3月から首都ベオグラードを含むセルビア拠点への空爆作戦を展開した。アライド・フォース作戦と命名されたこの軍事介入作戦は99年6月に終結し、ユーゴ連邦軍のコソヴォ撤退とコソヴォへの国連平和維持軍の展開が実現した。
 これはミロシェヴィチ政権にとって打撃となる敗北であったが、民衆革命の直接の動因ではなかった。より直接には、翌年9月の連邦大統領選挙での投票操作疑惑に対する抗議が動因となる。初めて二回投票制による直接選挙で実施されたこの選挙では、政権寄りの選挙管理委員会が当初、どの候補者も一回投票で過半数を獲得しなかった旨発表した。
 しかし、野党統一組織・セルビア民主抵抗の候補者ヴォイスラヴ・コシュトニツァの陣営は同候補者が一回投票で過半数を獲得したとして、政権側の集計操作を指弾した。これを受け、野党支持者らが10月にかけて、非武装の大規模な反体制行動を展開した。この抗議行動は新ユーゴの構成国でもあるモンテネグロからも支持された。
 これに対し、政権側は武力鎮圧を図ることも技術的に可能ではあったが、連邦相方のモンテネグロからも見限られた形のミロシェヴィチは政権維持を断念し、10月7日に大統領を辞職した。その結果、コシュトニツァが新大統領に就き、完全な政権交代が実現することとなった。この間、2人の死者が記録されているが、ほぼ無血での革命である。
 こうして、選挙不正疑惑が非武装民衆の大規模な抗議行動を誘発し、短期間で体制瓦解に至った点では、2000年のセルビア革命も、1986年のフィリピンにおける民衆革命と同様の経過を辿った民衆革命であったと言える。

コメント