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近代科学の政治経済史(連載第9回)

2022-05-08 | 〆近代科学の政治経済史

二 御用学術としての近代科学(続き)

プロイセン科学アカデミー
 ドイツ語圏において御用学術としての科学を象徴する組織は、1700年にブランデンブルク選帝侯立科学協会の名称で設立されたプロイセン王立科学協会である。この組織は当時のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が哲学者で数学者でもあったゴットフリート・ライプニッツの提案を容れて設立したものである。
 ライプニッツ自身は科学者というよりは総合的知識人といったタイプの人物であったが、先行の英国王立学会やフランス科学アカデミーに触発され、招聘されたベルリンで、同種のアカデミーの設立をブランデンブルク選帝侯に進言したのであった。そして、時の選帝侯フリードリヒ3世が1701年にプロイセン王フリードリヒ1世となったことで、プロイセンの御用学術機関に格上げされた。
 ただし、この機関の設置に際しては、フリードリヒ1世自身よりも二番目の妃であったゾフィー・シャルロッテの影響が強かったと見られる。好学の彼女はベルリンにサロンを開き、多くの学者や芸術者を集めており、ライプニッツとも文通関係にあった。
 プロイセン王立科学アカデミーは自然科学のみならず、人文科学もカバーしていた点で、英国王立学会やフランス科学アカデミーより幅が広く、1710年以降、自然科学部門と人文科学部門とに二分された。これは、学術の文理分割、とりわけ自然哲学からの自然科学の分離の先駆けでもあった。
 プロイセン科学アカデミーは第3代プロイセン王で啓蒙専制君主であったフリードリヒ3世の治下、未解決の科学的問題の解決に対して金銭的報酬が支払われることとなり、御用研究機関としての性格を強め、天文台や解剖施設、医学研究施設や植物園、実験施設などの附属組織が順次整備されていき、本格的な王立研究機関となった。

ロシア科学アカデミー
 同様の御用機関は、ロシアでも1725年に設立されている。設立者が当時のピョートル1世(大帝)であったことは不思議でない。彼は言わばロシアの啓蒙専制君主として、ロシアの西欧的近代化を邁進しようとしていたからである。ただし、ピョートルは1725年の開設を目前に死去した。
 開設当時のロシアの科学界は全く未発達であり、当初のアカデミーは数学者・物理学者のレオンハルト・オイラーや、ダニエル・ベルヌーイ、発生学者のカスパー・ヴォルフといった主としてドイツ語圏のお雇い外国人に依存していた。
 しかも、開設を前にピョートルが死去したこともあって、アカデミーは発展することなく、次第に形骸化したが、この状況を変えたのが女帝エカチェリーナ2世である。完全なドイツ人であった彼女はロシアの文化的発展に注力し、その一環として、停滞していた科学アカデミーの院長に側近女官エカチェリーナ・ダーシュコワ公爵夫人を任命した。
 ダーシュコワは科学者ではないが、高い教養を備えた才女として知られ、同様に教養人であったエカチェリーナ女帝の議論相手としても最側近者となっていたことから、女帝はアカデミーの再建を彼女に託したのであった。
 1783年から96年まで院長を務めたダーシュコワは手腕を発揮し、論文集や教科書の出版事業で得た収益を活用して基金を設け、数学や物理学、化学等の公開講座を開設、下級貴族子弟らへの教育・啓蒙活動を行った。こうして、ロシア科学アカデミーは女帝と女官という二人の女性の手により再興されたことは注目に値する。

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