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近代革命の社会力学(連載第429回)

2022-05-18 | 〆近代革命の社会力学

六十一 インドネシア民衆革命

(3)民衆蜂起から半革命へ
 アジア通貨危機はスハルト体制の経済下部構造を直撃し、脆弱な金融システムや軍部・スハルト一族、さらには取り巻き集団の経済利権に支えられていた縁故資本主義の限界を露にし、体制の動揺は政治的上部構造にも及んだ。
 とはいえ、体制に対抗すべき野党は脆弱であった。ゴルカル体制の下、合法的な野党は、いずれも政権による事実上の強制合併によって形成された官製野党であるイスラーム系の開発統一党と世俗系のインドネシア民主党の二党しか存在しなかったうえ、前回も触れたとおり、両党ともに地方の草の根レベルでの活動が制限されており、弱小政党にとどまっていた。
 ただ、民主党では90年代になって、スカルノ長女のメガワティ・スカルノプトリが指導者として台頭し、党首に就任したが、党内の反メガワティ派が政権と通じる形でメガワティを追放した。その際、党本部の明け渡しをめぐる両派の抗争に介入した治安部隊と一般市民を含むメガワティ支持派の衝突で多数の死傷者を出す事件があった。
 これは通貨危機前年の1996年7月のことであったが、この件が体制の打撃となったようには見えず、むしろ政権が野党の人事にまで介入できる力を誇示する形となった。結局のところ、通貨危機の時点で、体制に対抗できる力量を持つ野党は存在しなかった。
 そのため、通貨危機に起因する1998年以降の反体制運動の導火線となったのは、学生運動であった。学生運動も厳しく監視され、抑圧されていたとはいえ、フットワークが軽く、政治的に組織されていない学生運動は権力にとってしばしば死角となる。
 学生の抗議運動は98年1月から始まるが、ピークは政権が燃料費を70パーセント値上げした5月に訪れた。抗議運動はこの頃からスハルト大統領の辞任要求を掲げるようになっていた中、大統領がG15首脳会議出席のため外遊中の同月12日(以下、断りない限り日付は98年5月を示す)、首都ジャカルタのトリサクティ大学で抗議デモ中の学生に治安部隊が発砲し、4人の学生が死亡する事件が起きた。
 この事件が引き金となってそれまでは静観していた一般市民も決起し、全国各地での民衆蜂起に進展した。この蜂起は非暴力にとどまらず、略奪―特に中国系商店への―やレイプさえも含む暴動を伴ったため、世上「1998年5月暴動」と呼ばれることになった。
 しかし、この大暴動が直接に革命に達することはなかった。14日に急遽スハルトが帰国すると、暴動は自然収束したからである。その要因は不詳であるが、軍による流血の武力鎮圧を回避したい民衆と政権双方の意思が一致したことが自然収束を結果したようである。
 ところが、暴動収束後の18日になって、本来はスハルト側近であるハルモコ国民協議会(国会)議長が公然とスハルトの辞任を要求、これに呼応して有力なイスラーム指導者も大統領辞任を求める大規模なデモ計画を公表した。
 意外なことに、これを受け、3月に七選し権力に執着していたはずのスハルトが辞職の意思を固め、21日には公式に辞職した。こうして、30年に及んだスハルト体制が5月のわずか一週間余りの激動により、あっさり終焉したのであった。
 強力な軍部支配機構に支えられていたはずのスハルト体制がこれほど簡単に崩壊するに至った力学を合理的に説明することは困難であるが、経済的にも大損失を生じた通貨危機と民衆蜂起を経て、すでに高齢のスハルト本人や側近集団も政権維持への意欲を喪失する集団的なアパシーが生じた可能性がある。
 ただし、後任大統領には憲法の規定に従い副大統領が昇格したため、ゴルカル体制自体は当面継続した。結局、民衆蜂起はスハルトの辞職という結果を導くにとどまったため、98年5月の出来事自体は「半革命」と呼ぶべき不発的な革命事象であった。

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