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民衆会議/世界共同体論(連載第1回)

2017-08-10 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

改訂版まえがき

 本連載は元来、『共産論』で提起した共産主義的な民主的政治制度を敷衍して論じた派生連載であるが、先般連載を終えた『共産論』増訂版において、司法制度の部分を中心に旧版に変更を加えた関係上、本連載についても改訂する必要が生じてきた。その間の事情は、先行して改訂版連載を開始した『共産法の体系』と同様である。併せて、一部の用語や表現に修正を加えつつ、ここに『民衆会議/世界共同体論』改訂版の連載を開始する。


序言

 筆者は、先に連載終了した『持続可能的計画経済論』の最終章で、共産主義的な計画経済にふさわしい政治制度の概要について言及した。それは、主権‐国民国家制度によらない世界共同体及びその構成要素ともなる民衆会議というものであった。その概略的な制度構想については、すでに別連載『共産論』においても論じているところである。
 ただ、民衆会議/世界共同体の制度は現在我々がすっかり馴染んでいる主権国家をベースとした国際連合や国民国家の議会制度などの内外諸制度とは大きく異なるため、概略説明のみでは理解されにくい。そこで、これまでの記述では十分に触れてこなかった世界共同体/民衆会議の理念的な基礎や制度の詳細設計に関して、改めて独立した連載を立てて論じてみたいと思う。
 繰り返せば、民衆会議/世界共同体の構想が理解されにくいのは、国家という馴染み深い政治制度から脱しようとするからである。国家という制度やその理念は、もとより世界中にあったわけではなく、西洋近代政治学が生み出した一つの政治モデルにすぎないが、それは民衆より以上に統治者にとって有益なツールであったことから、世界中に拡散し、日本のような非西洋圏でも定着した。 
 それへの反発から、アナーキズムの思潮も現れたが、人間は本来的に秩序を求める生物であり、純然たるアナーキー状態では生存できないようである。結局、アナーキズムはアンチテーゼ以上のものとならず、いつしか退潮していった。結果、国家制度は地球的常識となった。
 そのため、国家という政治単位を前提としないあらゆる政治思想が脇に押しやられ、思考されないものとなってしまっている。脱国家的な制度構想は過激なアナーキズムの再来のように受け取られかねない状況である。
 しかし、すでに公表してきた概略的な記述からもわかるとおり、筆者の提唱する民衆会議/世界共同体構想は、決してアナーキーなものではなく、国家とは別の手段によって一つの秩序を志向するものである。そのため、そこには伝統的な国家諸制度との連続性も一定は認められる。
 これまでの議論においても、現行国家制度との対比に努めてきたつもりであるが、本連載ではいっそうクリアな形で、そうした対比によって現行国家制度の限界性を浮き彫りにすることを通じて、民衆会議/世界共同体の具体像を示していく。それは同時に、西洋近代政治学常識に対する―否定的ではなく―脱構築的な挑戦の試みともなるであろう。


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