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貨幣経済史黒書(連載第11回)

2018-04-22 | 〆貨幣経済史黒書

File10:元禄バブルと正徳デフレ

 日本の貨幣経済は江戸幕府が金銀銅の各貨幣を統一し、いわゆる三貨制度を確立したことで本格的に展開されるようになった。中でも当時世界最大級だった佐渡金山と石見銀山が貨幣素材を産出提供する幕府直轄鉱山として機能していたが、乱採掘により17世紀末の元禄時代には生産量が落ち込んでいた。
 他方、江戸時代前期の日本は有数の貴金属の輸出国として、貿易を通じて金銀銅が海外へ流出していた。幕府の「鎖国」政策の目的の一つは貿易を制限することで貴金属の大量流出を防ぐことにもあったが、それでも蟻の一穴と言うべき長崎貿易を通じて海外流出を止めることは難しかった。
 その結果、元禄時代には市中の貨幣流通量が限界に達する反面、国内貨幣経済の発展は貨幣需要を増大させ、そのギャップがデフレーションを招来しつつあった。皮肉にも、時の将軍・徳川綱吉による放漫財政がデフレ抑止効果を果たしたが、それは当然にも幕府の財政赤字を累積させていた。
 そのような微妙な転換期に幕府の財政政策を担う勘定奉行に抜擢されたのが、荻原重秀であった。小旗本出自の彼がこの地位に抜擢されたきっかけは、佐渡奉行として衰退しつつあった佐渡金山の生産力回復で実績を上げたことが大きかっただろう。
 荻原の貨幣政策は極めて単純で、貨幣量を増やす代わりに貨幣価値を切り下げるということに尽きる。すなわち、従来江戸貨幣の基準貨であった慶長金/銀を改悪して、元禄金/銀を鋳造したのである。引用の形で伝えられる荻原の名言「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」は、端的に彼のポリシーを言い表している。
 このように国の信用下に発行された貨幣ならば、瓦礫であってもよいとする信用貨幣論は現在でこそ常識だが、金銀銅の貨幣素材に価値を認める実物貨幣が(世界的にも)主流だった当代には、先駆的な意義を持っていた。
 このように悪貨によって貨幣価値を切り下げる政策は貨幣の実質流通量を増やし、インフレーションを招いた。その規模については史料の限界から評価は分かれるが、豪商が退蔵していた貨幣の価値が下落したことで、商人層は貯蓄から投資へと動き、貨幣支出が増えるバブル的好景気に沸くこととなった。
 元禄時代の華美な町人文化は、こうして政策的に作り出された政策バブルであった。それは幕府の財政難の軽減にもいっときつながったことで、こうした通貨リフレーション政策を高評価する向きもあるが、宝永の大地震とそれに続く富士山の大噴火という自然災害がすべてを打ち砕いた。
 荻原はまたしても貨幣改鋳で対応しようとし、いっそう質を落とした宝永金/銀を発行したが、今度は大幅なインフレーションによる景気悪化を招来することとなった。元禄バブルの崩壊である。荻原自身、銀座と癒着して独断で改鋳を行なっていたことも発覚し、新将軍・徳川家宜の下で台頭してきた新井白石の画策により解任に追い込まれたのである。
 白石は「悪貨は天災地変を招く」との儒教的な価値観から、一転して貨幣の質を慶長金/銀のレベルに戻した正徳金/銀を鋳造した。これはインフレーションの緊急的な抑制には寄与したと見られるが、市中の貨幣需要に対応できず、デフレーションによる景気低迷を招き、最終的には白石の失脚にもつながるのである。


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