ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

貨幣経済史黒書(連載第10回)

2018-04-08 | 〆貨幣経済史黒書

File9:ミシシッピ・バブル事件

 英国の南海バブル事件と同時期に並行する形で、海を越えたフランスでも同様のバブル事件が起きていた。バブルの舞台となった貿易会社ミシシッピ会社にちなんで「ミシシッピ・バブル」とも呼ばれるこの事象の発端と問題の金融スキームは南海バブルとよく似ている。
 異なるのは、フランスではジョン・ローという特定の人物が明確に主導したことである。ローは元賭博師のスコットランド人銀行家・経済理論家であり、ルイ14世の死去後、ルイ15世の治世初期の摂政オルレアン公フィリップ2世に招聘され、財政再建を委ねられたのである。
 ミシシッピ会社はフランスの北アメリカ領土と西インド諸島との貿易を独占する国策会社としてルイ14世時代の1684年に設立されていたが、14世時代のフランスは対外戦争と王の浪費癖により極度の財政赤字に陥っており、ミシシッピ会社も経営破綻寸前であった。
 ローが目を付けたのが、破綻寸前のミシシッピ会社であった。彼は1717年、これを西方会社と改称、北アメリカ・西インド諸島との25年間の貿易独占権を獲得したうえに、東インド会社などの既存貿易会社も合併したインド会社なる独占貿易会社へと急拡大したのである。
 従って、正確には「インド会社バブル」と呼ぶべきかもしれないが、インド会社の業務の中心がミシシッピ流域のルイジアナ植民地の開発・貿易事業―ミシシッピ計画―にあったことから、「ミシシッピ・バブル」の通称が与えられている。
 インド会社はローの肝いりで設立した王立銀行(現フランス銀行)まで傘下に入れ、短期間で一大総合企業グループに成長したのであるが、中核事業である貿易業務は振るわなかった。しかし、本質的に投機家であったローは巧みな宣伝活動によってインド会社株の購入を煽り立てたのであった。
 ローはインド会社株の新規発行を続け、株購入資金を傘下の王立銀行から貸し付ける信用取引を強力に推奨した。ローの見込みによれば、この信用取引を通じて政府の信用保証がある不換紙幣を増発し、政府債務(国債)をインド会社株式に転換すれば、財政赤字を解消できるというのだった。こ
 国債を株式に転換するスキーム自体は、先行の英国の南洋会社と同様であり、影響関係も想定される。違いは、このように王立銀行まで傘下に入れて信用取引を煽るというより投機性の強い博打的やり方にあった。しかし、それは信用性が低く市場価格が低迷していたフランス国債を高い額面価格でインド会社の株式に転換するという無謀な計画であった。
 当初はこの方法で政府の全債務をインド会社株式に転化することに成功し、政府は株主となった債権者に対して、利息配当の形で返済していった。この間、1719年には、インド会社株価は500リーブルから1万リーブルへと急騰する。この発行価格の数十倍という異常な株価高騰は、インド会社の業績には全く見合わないものであった
 1720年、ついに信用不安が発生し、パニックに陥った株主は所有株の一斉売却に走った。本位貨幣と交換できない不換紙幣もあだとなり、翌年、インド会社株は暴落、会社は経営破綻に追い込まれた。株主には信用取引の債務だけが残された。
 ローは解任された後、国外へ亡命し、貧困のうちに客死した。こうしてミシシッピ・バブルは終わったが、このバブルは実態の不確かな未開地開発計画も絡む一種の証券詐欺事件と見ることもでき、今日なら刑事事件として立件されることもあり得た国家的詐欺事件であろう。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第9回)

2018-04-08 | 〆貨幣経済史黒書

File8:南海バブル事件

 17世紀オランダの「チューリップ・バブル」はごく単純な商品投機バブルであったが、より複雑な国策金融会社が絡んだ大規模なバブル事件は、オランダの後を追い、金融大国にのし上がろうとしていた18世紀初頭の英国で発生した。
 南海会社という国策金融会社を舞台としたため、「南海泡沫事件」の名でも知られるこのバブル事件の発端は、当時の英国政府が財政赤字解決のために創始した巧妙な金融スキームにあった。それは、1711年に南アメリカ大陸方面との貿易を独占する勅許会社として設立された南海会社に国債を引き受けさせ、公的債務を整理するというものであった。
 折りしも、スペインとの戦争で有利に講和した1713年ユトレヒト条約に基づいて獲得した西インド諸島との奴隷貿易の権利(アシエント)を行使して南海会社の貿易事業が軌道に乗れば、債務整理のスキームも成功するはずだった。
 ところが、元来アシエントの割当が不足していたことや、従来からの海賊による密貿易の存続、さらには再びスペインとの関係が悪化し、四か国同盟戦争に突入したことなどの諸事情から南海会社の業績は不振であった。そこで1718年に富くじ発行という苦肉策に出たところこれが大当たりし、さらに翌年にはイングランド銀行との入札競争に勝ち、国債と南海会社株を交換する権利を得た。
 これは、英国債と南海会社株を等価交換することで、南海会社の増資を水増しし、南海会社株の株価を吊り上げていくという投機ゲーム的な危うい金融スキームによっていた。しかし、資本主義勃興期の当時、余剰資金の投資先を探していた中産階級にとっては、魅惑的な金融投資とみなされ、空前の南海会社投資ブームが発生した。
 実際、1720年には南海会社の株価は100ポンドから1000ポンドへと一挙に10倍に跳ね上がった。つられて、他の会社株も高騰、南海会社と同様のスキームを持つ無許可の投機目的会社も乱立され、市況は過熱状態になった。危機感を抱いた当局は、泡沫会社規制法を制定し、政策介入を試みた。
 こうした沈静化措置も影響して、20年末から21年にかけて南海会社株価は暴落した。バブルがはじけたのである。破産者や自殺者が続出する事態に、政府は調査に乗り出した。これを指揮したのが、英国の「初代首相」と目されているロバート・ウォルポールだった。
 調査の過程では、南海会社重役の不正や政治家の収賄の疑いも浮上したが、鍵を握ると見られる会社の会計主任が逃亡先ベルギーで拘束されたものの送還されず、うやむやに終わった。政界や王室まで巻き込む疑獄に発展しかねないことを恐れたウォルポールが真相究明より会計監査などの再発防止策を優先させたせいと見られている。
 南海会社の設立を主導したのはウォルポールの政敵でもあった時の大蔵卿ロバート・ハーレーだったが、彼は南海会社の金融投機スキームが本格的に始動する前の14年には失脚・解任され、バブルがはじけた時には引退しており、直接の責任を問われることはなかった。
 南海バブル事件は証券取引所と証券監督行政が未整備だった近世の事件であるが、自らも投資し大損したアイザック・ニュートンの「天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった」という反省の弁に見られる株式取引の投機性という本質自体は今も変わらない。

コメント